おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「推し」を大事するように

私たちは大なり小なり自分を取り繕いながら他人と接していて、プロのメッキ加工職人とも言える存在であるため、自分の本質さえもよくわからなくなることがあるのだけれど、そのメッキが剥がれたあとの本質的なところは、誰も見ることがない自分ひとりで過ごす空間や自分ひとりの時間の過ごし方に表れる。

 

自分にとっての自分の価値はどうなのか、自分にとって自分は大切な存在だと思えているのか、それが一人で過ごす空間や時間の過ごし方に表れる。その空間や時間の過ごし方、つまりは自分一人の時の日常を観察することによって、自分が自分のことをどのように思っているのかがわかる。

 

自分にとって大事な人(A)がここにいたとする。

 

Aは私にとって大事なのだから、Aを大事にするための行動を私は軽快に行うことができるだろう。

 

Aの健康のために料理を作るし、過度な外食は控えさせるし、Aが気持よく眠ることができるようベッドメイクもやるし、定期的に寝具は洗濯するし、寝る前にスマホを触ることは勧めないし、Aが清潔で気持ちよく過ごすことができるよう部屋の掃除も定期的にやるし、水回りもきれいにするし、ゴミ出しも定期的にやる。服は洗濯し、傷んできたら買い替える。Aの健康のために適度な運動も推奨する。Aが何か悪いことをしても、Aは大事なので、Aを責めて傷つけるようなことはしない。だけど、Aの悪を正当化はしないし、悪いことをどんどんやれとも言わない。Aの悪によって生じた問題に自分も一緒に対処する。

 

何をすればAを大事に扱うことになり、何をすればAを粗末に扱うことになるのか、そういうことを真剣に考えて、前者に当たる行動をAのために自分が動いて行う、後者に当たるものはAのために行わない。

 

Aを自分に置き換える。

 

Aを大事にするための行動や心がけを自分に対してやる。

Aを粗末にするための行動や心がけを自分に対してやらない。

 

他人にできるのだから自分に対してもできるだろう。

 

以前、推し活に全てを投じているような少女を描いた小説を読んだのだけれど(また読みたくなってきたな)、彼女は自分の日常を疎かにして犠牲にして、「推し」を優先していた。自分を粗末にして、「推し」にのみ時間と労力をお金を投じていた。

 

彼女には、まず自分の「推し」が自分の部屋で日常生活を送ることをそのジョン・レノンばりの想像力で想像することをおすすめする。

 

そして「推し」が自分の部屋で日常生活を送るとなった時、「推し」が快適に過ごせるよう、自分はありとあらゆるものを整えはじめるだろうし、家事も嬉々として行うようになるだろう。

 

そして、自分が「推し」の日常生活を整えるためにやることを自分にやればいい。

 

そこですんなりと動けるのであれば、自分は自分のことを大事だと思えているということになる。

 

そこで動きたくないと思ったり、実際に動かないのであれば、自分は自分のことを大事だとは思えておらず、だからこそ粗末に扱ってもいいと思っている。その結果、自分の日常は乱れたままになる。

 

自分のことを大事に思えていたら、当然、自分の日常を整えるための行動をとれるようになると思うだけれど、これは逆もあり得て、今現時点で自分のことを大事に思えていないようであれば、自分の日常を整える行動を意識的にとることによって、段々と自分のことを大事に思えてくる。

 

今、自分のことを大事に思えておらず、日常が乱れているようであれば、初動はネバギバの精神が少し必要なるが、自分を大事にするための行動をとることによって、自分のことを大事に思えるようになる。

 

何とも思っていなかった革靴を、ある時から面倒だけれどネバギバの精神で靴磨きをし始めたら、段々と愛着が湧いてきて、次第にその革靴を大事に思えるようになってきて、靴磨きを嬉々として行えるようになってきて、気づいたら定期的な靴磨きが日常になっていた、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、まずは「自分を大事にするための行動」から「自分を大事に思える精神」を少しづつ醸成していくということも楽勝でありえるのではないかしらん。

 

以上です。