おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

お金に頼り過ぎないように

田圃や畑にお金を撒いても収穫は得られない(田圃や畑がお金に見える政治家や土地開発の業者はいるが)。

 最近私はお金ではどうにもならないことをしている人をつくづく「偉いなあ」と思う。最後は誰かが体を使ってやらなければならない。私に「取材旅行に出ないか」と言ってくる人とか、「しばらく滞在してこっちを舞台にした小説を書いてくれないか」と言ってくる人がいるが、そのたびに私は「猫がいるから無理だ」と答える。そうすると向こうは「じゃあ、猫の世話をできる人間を手配する」と言うのだが、それは田圃にお金を撒けば収穫できるというのと同じ発想だ。誰かに世話を任せたら「猫を飼っていることにならない」

 

保坂和志『人生を感じる時間』

 

私たちは日々大金をこの手に掴むことを夢見て右往左往しているが、私たちが大金を求める理由のひとつはお金があれば楽ができると思っているからだ。確かに大金が楽をもたらしてくれる部分は多分にあるのだけれど、その欲望の奥底には「田圃や畑にお金を撒いたら収穫が得られる」という発想があるのかもしれない。誰かが体を使ってやっていることを自分がやっていることと勘違いして、自分が実際に体を使ってできることが実は極めて少ないということに気がつかないまま、「金がある」ただそれだけで傲慢になってしまっているかもしれない。

 

私たち夫婦は自分でちゃんと掃除ができないから、お金に頼ってきれいにしてもらっている。その関係は対等のはずだし、彼らが私たち夫婦のことが気に入らなくなったら、彼らは私たちの依頼を断ることができるのだから、最後のキャスティングボートは向こうが握っている!

 

お金による関係というのは基盤が不安定なのだ。だから私はせめて猫のことだけは病気で獣医にかかるとき以外は自分でできてよかったと思う(あたり前なのだが)。

 

保坂和志『人生を感じる時間』

 

お金があるだけでは掃除というものはできない。誰かが体を動かして汚れに対処する必要がある。その誰かというのが他人であればお金に頼る領域も大きくなるし、自分ができないことをやることができる相手であるため立場は対等で、当然こちらからの依頼を断る権利を相手は有している。相手から断られれば、金はあるが汚れもあり続ける状態が続くことになる。

 

ある問題に対して自分が体を動かして対処できる領域が広ければ、その分お金に依存する領域は狭くなり、日常は安定しやすくなる。逆に、ある問題に対して自分が体を動かして対処できる領域が少なければ、その分お金に依存する領域は大きくなり、日常は不安定になる。当たり前と言えば当たり前か。

 

もちろんありとあらゆることについて自分の体を動かして対処する必要はない。自分で対処できるものと対処できないものをきちんと見極め、自分で対処できないものについては相手の力が必要であるため、相手に気持よく動いてもらうために何らかの工夫をする必要がある、基本的に頭を下げてお願いする必要がある。あくまでも相手とは対等の関係であるため、高圧的な態度や失礼な態度をとることはできない。断られて困るのは自分だからな。

 

ここで言う問題というのは、日々の乱れも同じだ。私たちの日常は放っておくと乱れていくのが常なのだけれど、その乱れは1時間単位で乱れるものもあれば(喉が乾くとか)、1日単位で乱れるものもあれば(眠くなるとか)、1週間単位で乱れるものもあれば(爪が伸びるとか)、1ヶ月単位で乱れるものもある(髪が伸びるとか)。多様なスパンにおける多様な乱れがある。

 

それら日々の多様な乱れに対し自分で対処できる領域が少なければ、その分お金に頼る領域が大きくなり、日常が不安定になりやすい。お金に頼る領域が大きい分、大金が必要になり、大金を渇望することになり、強迫的にお金を求めるようになり、その結果、心身ともに消耗してしまう。

 

私たちは大金を手に入れて何もしなくてもいい楽な生活をつい求めてしまうが、それはある意味で、お金による関係だけの生活を求めるということで、自分で自分のことを整えることができないという意味で、その基盤は不安定極まりない。逆に自分で自分のことを整えられる術を身につけて、整え続けられるようになれば、自分が気持よく動くことができるので、人に動いてもらう必要がない分、お金が必要ではない。そしてその分生活が安定しやすくなる。

 

炊事、洗濯、掃除、これらを自分で気持よくできるようになるだけでもお金への依存度は一気に下がり、生活は安定しやすくなると思う。

 

田圃や畑にお金を撒いたら収穫が得られる」という発想に飲み込まれて傲慢にならないよう、自分の体を使って気持よくやれる日常を整えるための活動(仕事は除く)をいくつか持っておくといいのかもしれない。