おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自然的「快」のある暮らし

先日『エピクロス――教説と手紙』という本を読んだ。

 

自己充足を、われわれは大きな善と考える、とはいえ、それは、どんな場合にも、わずかなものだけで満足するためではなく、むしろ、多くのものを所有していない場合に、わずかなものだけで満足するためにである、つまり、ぜいたくを最も必要としない人こそが最も快くぜいたくを楽しむということ、また、自然的なものはどれも容易に獲得しうるが、無駄なものは獲得しにくいということを、ほんとうに確信して、わずかなもので満足するためなのである。

 

自然のもたらす富は限られており、また容易に獲得することができる、しかし、むなしい臆見の追い求める富は、限りなく拡がる。

(出隆、岩崎允胤訳『エピクロス――教説と手紙』)

 

私たちはエピクロス先輩の言うところの「むなしい臆見」により際限なく価値あるものをかき集めようとする。自然は私たちに労力的な限界、時間的な限界を設けているにも関わらず、私たちはそれを無視して富を追い求める。労力的にも時間的にも限界を超えているにも関わらず、使い切れない量の富をかき集め続ける。

 

皆が皆、富をかき集め続けようとするので、かき集め続けている者同士が争い合うことになり、その結果、心身ともに消耗するのだけれど、その「消耗」も富がもっとあれば解決すると思って再び富のかき集めゲームに身を投じることになる。

 

これは自然の限界を無視した結果で、やっぱり自然は恐ろしく、ないがしろにすると不安と不満足の無限ループに陥ってしまう。

 

そうならないための解決策はシンプルで、ただただ自然が定めたルールを守ればいい。

 

自然は私たち一人ひとりに時間的な限界と労力的な限界を定めているのだから、それらの限界を超えないようなものの持ち方をすればいい。その限界がわからないことが「むなしい臆見」の一つなのかもしれない。

 

時間的な限界と労力的な限界が定められているということは、私たちは自分が使うことができる分しかものを持てないということだ。ものを使うには時間と労力を必ず消費する。よって、自分が時間と労力を割くことができる分しか持たない、というのが自然なのだろう。

 

時間と労力を割くことができないものは使われることがない。使われないということは持っていないということ、何もないということと本質的には同じで、つまり、自然が定めた限界を無視して富をかき集め続けるというのは、空っぽのものに自分の時間と労力とお金を注ぎ込み続けることであり、むなしい行為でしかない。さらにそれを有意義なことであると盲目的に思い込んでいるのだから臆見でしかない。まさに「むなしい臆見」であーる、ということなのかしらん。

 

なぜ私たちは自然が定める限界以上に富をかき集めようとするのかというと、私たちは富を持っていれば持っているほど自分は「価値のある人間」になれると思っているからで(他人からは「価値のある人間」と思われるかも知れないが、自分ではないものをどんなにかき集めたところで自分の本質には何の影響も及ぼさない)、そうして他人を見下して優越感に浸ることを「幸福」だと思い込んでいるからで、それはそれで一つの臆見でもある。

 

自然が定める限界以上の富、これが「ぜいたく」だとすると、自然が定める限界内で暮らしている人は「ぜいたくを最も必要としない人」にあたる。ぜいたくを最も必要としていない人の生活は、自分が使っているものだけの生活を送っており、それで充足している。

 

毎食一汁一菜の食事で充足している人にとって、偶然の所業によって食べることがある「トリュフがかかったサラダ」でも「鳥貴族の焼き鳥」でも、日常の範疇を超えているので「ぜいたく」になる。そしてそれを非日常として存分に楽しむことができる。しかし、すでに自然の限界内の生活という基盤がしっかりとしているので、それら「ぜいたく」に依存することはない。執着することはない。それらの「ぜいたく」もってして自分を定義づけようとはしない。

 

自然の限界内で暮らすということは、「ぜいたく」をするなということではなく、「ぜいたく」があってもなくてもどうでもいいという心境になるということだ(もうすでに自分の生活は自然の限界内で必要十分に成り立つということを確信しているからな)。むしろ自然の限界内で暮らせば、たまの「ぜいたく」を嗜みやすくなるし、実際にきっちりと楽しめるようになる。

 

自然の限界というのは自分がきちんと使うことができる量と同じ意味なのだけれど、その限界には案外とすぐに到達する。つまり自然の限界を満たすことは簡単ということ。一方で、むなしい臆見にが求める富の量は無限なので、それを満たすことは極めて難しい。これは量の話。

 

また人間の欲望の対象が自然的なものであれば(バランスの取れた食事、雨風をしのいでくれる静かな部屋、寒さを凌いでくれる衣服等)、それらは容易に入手することができるのだけれど、むなしい臆見による欲望が対象とするものは、「優越感」や「無限の富」で、求め始めるときりがないし、得続けることも困難でもある。困難なだけではなく無駄でもある。これは対象の話。

 

人間の欲望の対象と量が「自然」に則っていれば、それは「快」となる。

それらが自然を無視した「むなしい臆見」によるものであれば「苦」となる。

 

われわれの意味する快は、(中略)道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、実に肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。

 

身体の健康と心境の平静こそが祝福ある生の目的だからである。

(出隆、岩崎允胤訳『エピクロス――教説と手紙』)

 

自分の日々の言動や自分が日々起こしている思いは、エピクロス先輩のいう「快」の方向を向いているか。

 

私、いや、おいどんは大反省する必要があるな。

声出していこう。