おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

身近なカルト

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先日、近藤丸さんの『ヤンキーと住職』という本を読んだ。

 

分別してそのことで苦しむってこともある

例えば「あいつは良いやつ あいつは悪いやつ」といういい方を私もよくしちゃうんだけど

でもこれって「自分にとって都合の良い人」のことを「良いやつ」といって

「自分にとって都合の悪い人」のことを「嫌なやつ」っていっていることがほとんどじゃないかな?

あらゆるものを自分の色眼鏡をかけて見てしまう

で こういう分別を自分自身にも当てはめていく・・・

できていたり上手くいっているときの自分は認めるけれど

できていないときの自分は嫌い 見捨てていく

ダメな自分を責めて 消していこうとする・・・

「そのことが痛ましいことなんだと。そのことで苦しんだり傷つけあったりしているんじゃないか?」って仏教の言葉に向き合うと教えられる気がするよ

 

私たちは自分の都合で人や物事を2つに分ける。色眼鏡をかけて物事を見ており、その物事をありのままに捉えられていない状態で分けてしまう。

 

あの人は良い人、あの人は悪い人

あの人はできる人、あの人はできない人

あれは良いこと、これは悪いこと

 

色眼鏡をかけた状態の自分を正しいものとし、自分にとって都合の良いものを善として自分にとって都合の悪いものを悪とする。これが人間の善悪で、なおかつ人間は悪を痛めつけて消し去ろうとする。その悪をこの世から駆逐しようとする。

 

私たちの多くには気に食わない人がいて、心の奥底で「あいつがいなくなれば世界は良くなるのになー」「あいつが消えれば気持ちが晴れるのになー」「あんなやつはどんなに痛めつけてもいい」なんて思っている、あるいは思ってしまうことがある、と思う。

 

自分たちが絶対正しいという場所に立つとき、その正しさから他者を裁くようになるとき、正しさを握って誰かを傷つけるようになるとき、カルトは生まれるのだと思います。

 

本当は色眼鏡をかけて物事をありのままに捉えることができないにも関わらず(実際にそれができるのは仏や菩薩クラスの人だけだ)、自分に絶対的な正しさを置き、他人のことを決めつけたり、他人を傷つけることを正当化すること、これが集団であればカルトと呼ばれているだけで、私たち個々人もは多かれ少なかれカルト的であるかもしれない。

 

自分にとって都合の悪い人間が消えることを願う心、自分にとって都合の悪い人間を消そうとする心、これはヒトラースターリンポル・ポト金正恩と同様のメンタリティなのだけれど、私たちも彼らと根本的な発想は共有しているのかもしれない。私たちには誰かを消し去ることができるだけの権力がないだけで、彼らのように強大な権力を手にしたら実際のところ何をしでかすかわからない。彼らと自分は絶対に違うと本当に言えるのか。そうと言い切れないのであれば、彼らを攻撃するようなことを思うということは自分を攻撃するようなことを思うことになる。

 

ゴータマシッダールタ先輩からすると、相手がどんな人であれ、その人を痛めつけるようなことを思ったり行ったりすることは悪になる。なぜかというと、その冷淡な思いは、必ず自分に跳ね返ってきて自分自身が傷つき、自分自身が苦しむことになるからだ。

 

私たちが常にかけている色眼鏡は心のフィルターとも言い換えることができる。私たちは心のフィルターを通して物事を捉えている。

 

先日、私は部長に業務の説明をしたのだけれど、部長が些末な指摘ばかりしてくるため、私は多少攻撃的な思いを起こしながら部長と接してしまっていた。 

 

私の目の前には部長がいるが、私はその部長を自分の心のフィルターを通して見ている。私と部長の間には、私の心のフィルターがあるようなイメージだ。その状態で私が部長に対して攻撃的な思いを起こしたとすると、その攻撃は私の心のフィルターを傷つける。その思いが冷たい口調として外に出ていた場合、それによって相手も傷つくかもしれないが、それ以上に自分が傷つく。だから業務説明を終えた後はあまりいい気分にはなれなかった。それは部長に原因があるからではなく、自分にとって都合の悪い人間に対して冷淡な思いを起こすことが私の習慣になっているからだろう。

 

そして、帰宅後も部長のことを思い浮かべて部長を攻撃していたとする。無論、眼の前に部長はいない。私が思い浮かべている部長は私の心が作り出しているものであり、その想像上の部長の言動も全て私の心がもとになって見えたり聞こえてきたりする。その部長を攻撃するということは自分の心を攻撃するということになるし、ましてや自分の心の中で思い浮かべた部長を攻撃したところで、その攻撃の刃は絶対に相手に届かない。自分の心だけが傷つくだけで、割に合わない。

 

つまり、相手が目の前にいようといまいと、私たちが相手を攻撃しようとするとき、その時は必ず自分の心を攻撃することになる。

 

百歩譲って自分は絶対に正しいと思ってもいいかもしれないが、正しいからといって間違っている人間を傷つけてもいいということにはならない。そうすると何よりも自分が傷ついて苦しむことになるからな。

 

自分にとって都合の悪いものを「悪」とみなして、「悪」を攻撃する傾向が皆無ではない以上、私にもカルト的、独裁的な側面があるわけだ。なるほど。反省じゃん。

 

張り切っていこうと思う。