おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「おいしいごはんが食べられない人」になっていないか

先日、高瀬隼子さんの『おいしいごはんが食べられますように』という本を読んだ。

 

ちゃんとしたご飯を食べるのは自分を大切にすることだって、カップ麺や出来合いの惣菜しか食べないのは自分を虐待するようなことだって言われても、働いて、残業して、二十二時の閉店間際にスーパーに寄って、それから飯を作って食べることが、本当に自分を大切にするってことか。(中略)帰って寝るまで、残された時間は二時間もない、そのうちの一時間を飯に使って、残りの一時間で風呂に入って歯を磨いたら、おれの、おれが生きている時間は三十分ぽっちりしかないじゃないか。それでも飯を食うのか。体のために。健康のために。それは全然、生きるためじゃないじゃないか。ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう。

 

こう考える二谷という登場人物のように、余裕のない生活、特に時間的に余裕のない生活をしていると自分を大事にするための時間、自分を整えるための時間を確保して、自分を整えるための活動を行うのは難しいかもしれない。生活を整えるためにはやはり仕事を詰め込み過ぎないに越したことはない、残業は極力減らすにこしたことはない。

 

私の会社にも仕事の猛者がいて、彼女は朝は私が出勤したときには仕事を始めており、夜は9時半頃に帰る毎日を送っている。朝飯はなし、昼飯はこんにゃくゼリー、夕飯はカップ麺とビールの日々らしく、私としてはもっと自分を大事にして欲しいとは思うものの、当の本人が自分を大事にしようと思わない、自分はこんなもんなんだと思っている限りどうしようもないのでどうしようもない。

 

二谷の面白い点は、自分が生きている時間は30分しかないと言っている点だ。仕事をする、ごはんを食べる、風呂に入る、そのための時間を自分が生きている時間とみなしていない、みなすことができていない。それらを片付けた後に残る時間こそが自分が生きていると感じられる時間とみなしている。自分が生きている時間は、何をやってもいいし何もやらなくても良い自由な時間だけだと思っている。だからその大切な自由な時間のために食事はインスタントで済ませる。

 

んじゃあ、そのようにして捻出したわずかな自由時間で彼は何をやっているのかしらん。そのわずかな時間が生きている時間だとしたら、彼はそのわずかな時間を大切に有意義に使っているのかしらん。

 

彼がその時間を日常的にどのように過ごしているのかについての記述は特になかったのだけれど、私の経験に基づいて推測するに、ろくな時間の使い方をしていない。惰性でスマホをいじる、本をパラパラと読む、ポルノを見る、テレビを見る、酒を飲む、そんなものだろう。

 

私はかつて一定の金を貯めて海外を放浪していたことがあった。金もあるし、自由な時間も膨大にあった。にも関わらず、全然活力はなかった。とにかく気だるかった。自分が生きていると感じられるような時間ではなかった。

 

おそらく二谷は、自由な時間がどんなにあっても食事にはあまり気を使わずカップ麺や出来合いの惣菜を食べ続ける。それは彼がそもそも自分のことを大事な存在だと思っていないからで、それはかつての私もそうだったので何となくわかる。自分は大事な存在なんだと思えないと、キラキラしたごはんや粗悪なごはんは食べることができても、おいしいごはんは一行に食べられない。

 

自由に使えるお金や自由に使える時間は確かにある程度までは必要だとは思うけれど、それだけでは日々は整わない。日々を整えるには、自分は大事な存在で、自分を整えられるのは自分しかいなくて、自分で自分を整えると気持ちが良いということがわかる必要がある。

 

それがわかれば、二谷は残業を減らす努力をするなり、残業の少ない会社に転職するなりしてある程度の時間的余裕を作り、睡眠・食事・運動等を通じて自分の日常を整えていくと思う。

 

この小説には自分で自分を整えること、日常を整えることを大事にしている人も出てくる。

 

「食べるのが好きなんですね」

「どうなんでしょう。よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。食べるとか寝るとか、生きるのに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思うから」

 

寝ることも食べることも大事な自分にとって大事なことなのだから大事にする、今の私にはすとんと腑に落ちるのだけれどかつては全くそうではなかった。

 

だからどんなに金があって時間があっても、日常を整えるようなことをせず、自分を大事にするようなことをせず、目先の欲に流れて日常は乱れっぱなしでどよんとして気怠かったのだ。

 

海外を放浪している時のほうが非日常度も今より高いし、自由な時間も今より遥かにあったのだけれど、自分を整えるために家事や仕事をしている今の日常の方が遥かに心身は整っていて気持ちがいい。

 

これからも淡々と整え続けていこう。