おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

優越感を得て大事にされたいという思考パッターン

私たちには寂しいという根本的な感情がある。人から自分の存在を大事にされたい、人から自分の存在を認めてもらいたいという根本的な欲求がある。

 

寂しいのであれば、子供のように素直に寂しさを表現し、相手に「自分を認めて欲しい」「自分を大事にして欲しい」と伝えればいいだけなのだけれど、そう簡単にいかないのが我々凡夫だ。

 

相手に「自分を大事にして欲しい」と伝えようとする時、何よりも沸き起こってくのは「相手に拒否されるかもしれない」「相手に見捨てられるかもしれない」という恐怖だろう。

 

一番満たしたい欲求を満たしたいにも関わらず、満たされないことを宣告されるかもしれない。恐怖だ。自分から素直に相手に近づいていくことは恐怖以外何者でもない。

 

人から大事にされたい。だけど、自分から相手に近づいていき、素直に「自分を大事にして欲しい」と表明できない。もどかしい。

 

そこで私たちは自分から人に近づいていくのではなく、人から自分に近づいて

来させればええじゃないかええじゃないかという百姓一揆風の発想に辿り着く。

 

他人の方から自分に近づいてきてもらうためには何が必要か?

 

それは「価値」だ。

 

不特定多数の人間が価値のあるものとして認めている「価値」を手に入れ、自分が「価値のある人間」になれば、その「価値」を求めて人は自分に近づいて来てくれる。そして自分を認めてくれる。自分を大事にしてくれる。完璧なる戦術、おいどんって天才じゃね?

 

大金を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

権力を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

ブランド品を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

名声を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

知性を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

知識を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

肉体美を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

善良さを手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

地位を手に入れれば、人から大事にしてもらえる。

 

などなど上記のような前提に基づき、私たちは何らかの「価値」を手に入れ、何らかの形で「価値のある人間」になり、何らかの形で「私は価値のある人間だ」ということを他人にアッピールし、どうにかして人を引きつけ、人から存在を認めてもらいたい、存在を大事にしてもらいたいという欲求を満たそうとしている。

 

「価値のある人間」は大事にされる。

「価値のない人間」は大事にされない(見捨てられる)。

 

このような発想で、価値のない人間にならないよう、見捨てられないよう、私たちは「価値」を求めて血眼で競争を繰り広げる。アッピール合戦を繰り広げる。

 

価値あるもの(例えば高級車など)を手にしている者は、それを見せびらかすことによって、いかに自分が価値のある人間かを確認しようとする。

価値あるものを手にしていない者は、悪や異常なものを責め立て否定することによって、いかに自分が価値のある(正しく善良な)人間かを確認しようとする。

 

こうして「価値」を求めて奔走してはアッピール合戦を繰り広げている内に、他人を引きつけ他人から大事にされるための手段であったそれがいつの間にか目的になってしまう。ただただ「価値」を求めるためだけの人生になってしまう。いかに人よりも優位に立つか、ただそれだけを求めるだけの人生になってしまう。

 

人よりも優位であれば大事にしてもらえる。それが真実であれば、「存在を大事にしてもらい」「存在を認めてもらいたい」という私たちの根源的な欲求は何らかの優位性を手に入れた時点で満たされるはずだ。しかし、真実はそうではない。人よりも優位だからといって大事にされるわけではない。その証拠に富や名声や美貌といった「価値」を手に入れている人は、さらに富や名声を求める。あるいは心を病み、自ら命を断つこともある。

 

彼らは大事にされているように見えるが、彼らの周囲の人間は彼らの「価値」を大事にしているだけであって、彼らそのものを大事にしているわけではない。大事にされたいという欲求が満たされないので、もっと富や名声があれば大事にしてもらえる、もっと美しくなれば大事にしてもらえると考えるのであーる。あるいは本当の自分をさらに否定して「もっと善良な自分」をよりうまく演じれば大事にしてもらえると考えた結果、疲れ果ててしまうのであーる。

 

私たちは人から大事にしてもらいたいという欲求を満たすために、極めて回りくどいやり方かつ全くもって有効とは言えないやり方で頑張っているのだ。それは虚しい。大事にされるために頑張っているのに、結局大事にされているという実感を得られないからな。

 

だから人生は苦なりとゴータマ・シッダールタ先輩は説く。

 

ゴータマ先輩から言わせれば、人から大事にしてもらうためには自分が人を大事にしていくしかない。しかし、私たちは大事にするということがどういうことなのかさえよくわからない。だから、仏教を通じて大事にするということはどういうことなのかを学び、自分や身の回りのものや人を大事にできるようになっていく必要がある。そうして少しづつ実際に身近なものや人を大事にできるようになり、身近なものや人を大事にし続けていくと、大事にされたいという根源的な欲求がだんだんと満たされるようになってきて、優越感のために時間や労力やお金も割く必要がなくなり、さらに余裕ができてくる。その余裕を使って、さらに身近なものや人を大事にすればさらにいい感じになる。

 

なるほど。

 

以上です。