おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

苦しい時に助けを求められない思考パッターン

先日、西加奈子さんの『夜が明ける』を読んだ。同書に以下の一文があった。

 

苦しかったら、助けを求めろ。

 

確かにそのとおりなのだけれど、言うのは簡単、やるのは難関、みたいなことをとあるラッパーが歌っていたように、実際に世の中には苦しい時に素直に助けを求められない人が私を含めたくさんいる。

 

どうして苦しいのに助けを求められないのかしらん。

 

それは私たちの心の奥底に「価値のない人間は苦しんで当然だ」「価値のない人間は苦しむべきだ」「価値のない人間はどんなに苦しんでもいい」「価値のない人間は苦しまなければならない」という冷酷な思いがあるからだ。

 

そして、私たちは目に見える形であれ目に見えない形であれ日頃から価値のない人間を否定しながら生きているからだ。価値のない人間になり下がり人から見捨てられることがないように生きているからだ。

 

その「価値がある」「価値がない」の線引きは自分自身が行っている。私たちは自分なりの基準で世界を2つに分け、「価値がない」とみなしたものは自分であれ他人であれ徹底的に攻撃し否定する傾向がある。

 

『夜が明ける』の主人公もご多分に漏れずバリバリに線を引いて生きてきた。彼が攻撃し否定する対象は「陳腐な人間」「負けている人間」「生活保護を受けている人間」「社会の役に立たない人間」だ。

 

そして彼は自分が陳腐な人間にならないよう、負けている人間にならないよう、生活保護を必要とする人間にならないよう、社会の役に立たない人間にならないよう、己にムチを売ってネバギバの精神で頑張ってきた。

 

そのネバギバの精神の源は自分が他人を否定する強さに他ならない。「負けている人間は価値がない、だからどんなに粗末に扱っても良い」と否定的に思っているからこそ、「自分が負けている人間になると、人から粗末に扱われてしまう」としか思うことができない。たとえ周囲の人間が勝ち負けを気にしていなくても、勝ち負けで世界を分け、勝ち負けで人への扱いを変えてしまう本人はそうとしか思えなくなる。自分が世界に適用している否定的な線引は当然ながら自分にも適用される。まさにその自分が生み出した否定的な線引が恐怖や不安を生み出し、その恐怖や不安が強迫的なネバギバの精神を生み出す。

 

自分の否定的な線引によって生み出されたネバギバの精神で頑張り、自分なりの成果を上げたとしても決して楽にはならない。さらなる成果を上げなければ、手に入れた地位を失わないようにしなければと、心労は続く。

 

ペット番組は、俺が引き継ぐことになった。それによって俺は、正式にチーフディレクターの地位を得ることが出来た。

これでもう、手首を切らなくて済むと思った。呼吸がしやすくなると思った。でもどういうわけか、手首の傷は増え続け、首を何かに圧迫されているような感覚は消えなかった。

 

それでもなお否定的な線引に基づきネバギバの精神で頑張り続けた。

 

自分が「負け組」だと認めたくない時は、「勝ち組」の人間の粗を探し、他人を否定することで自分は価値のある人間だということを自分に言い聞かせようとしていた。

 

林の悪評が見つからなかったから、菅谷の悪評や過去の熱愛報道を探しにかかった。

現にダンは、度々家賃を滞納しながら、それでもこのアパートに住み続けている。いつも酒を飲み、酔って独り言を言い、あとは大抵痰を切っているゴミみたいな男

ダンの家の室外機が、度々音を立てている。生活保護受給者が、冷房をつけている。国民の血税で酒を飲み、国民の血税で涼んでいる。

「マジで殺すぞ。」

何かを破壊したくてたまらない。

 

勝ち負けを基準とした否定的な線引に囚われた主人公の心身はついに限界に達し、彼は動けなくなり、仕事を失い、困窮し、家賃の滞納や生活保護の申請が頭をよぎる。

 

すると、

 

ダンと同じクズに、成り下がるつもりか?

「負け犬」、「クズ」、「クソ」、「役立たず」。

 

という冷酷な言葉が聞こえてくる。

 

その声は自分が価値がないとみなしている他人に自分自身が日頃から発している言葉だ(実際にその言葉を口外してたかどうかは関係ない)。このように、日頃から他人を攻撃・否定していると、その攻撃・否定の刃は時として自分に向けられる。

 

それなのにどうして他人に冷酷に攻撃・否定ができるのかというと、「おいどんは絶対に奴のようにはならない」とバチクソに信じ込んでいるからだ。小説の主人公であれば、「おれっちは絶対に生活保護を受けることはない」とガチガチに自惚れているからだ。だからこそ、生活保護を受給している人間を徹底的に否定することができる。

 

だがしかーし、それは愚鈍な凡夫のただの思い込みや虚妄でしかない。思い込みと現実を区別できない無知でしかない。現実は個人の思い込みとは無関係に動く。個人の思い込みは諸行無常の理という真理の前ではあまりにも無力なのであーる。

 

自分なりに世界を「価値のあるもの」と「価値のないもの」に二分し、「価値のないもの」を否定しながら生きている人間は、自分の「負け=価値のなさ」を認めることができない。「負け」を認めるとそれまで自分が「敗者」に向けてきた攻撃・否定の刃が己に向かってくるので恐ろしくてたまらないからだ。

 

助けを求めるということは負けを認めるということだ。そして、自分が敗者に対して起こしてきた思いが冷酷なものであればあるほど、負けを認める恐怖は凄まじく、その分助けを求めにくくなる。

 

つまるところ、生きやすさというのは自分が世界に対してどんな思いを起こしているかで決まる。

 

自分が日頃から世界に対して寛容であれば、自分にムチを打ってネバギバの精神で勝つことにこだわらなくても良くなるし、万が一困った時も人に素直に助けを求めやすくなる。

 

一方で、日頃から世界に対して冷酷な思いばかり起こしていると、自分にムチを打ってネバギバの精神で勝ち続けることを己に課すことになり、その結果、心身がボロボロになっても「敗者に冷酷な自分」が人に助けを求めることを許さない。

 

世界を勝ち負けで二分し、敗者を否定する価値観しか持ち合わせていなかった主人公であったが、幸いなことに、勝ち負けに関係なく主人公に暖かく接してくれる人が最後に諭してくれたおかげで、彼は世界への接し方を変えることができるようになった、と思う。

 

かつて彼は生活保護受給者の存在を否定していた。

それから彼は生活保護受給者を守ろうと動き出そうとしていた。

 

その動きのベクトルが「生活保護受給者を否定する存在を否定する」という方向性だったとしたら、結局は世界を二分して一方を否定するというかつての思考パッターンと変わらない。自分が価値がないとみなしたものを否定する思考パッターン、自分が悪とみなしたものを否定する思考パッターン、自分の世界を冷淡なものにしてしまう思考パッターンと変わらない。

 

その思考パッターンのままだと一向に夜は明けないだろう。

 

んじゃあ、自分自身はどうか。

 

世界を二分し、一方を否定しながら生きていないかしらん。自分なりの基準を設け、その基準に満たない人のことを馬鹿にし、見下し、責め立て、傷つけ、否定してもいいと思っていることはないかしらん。そうして実際に彼らを、心の中であっても、見下し、責め立て、傷つけ、否定していないかしらん。

 

やっちゃってるわ。

 

自分の冷酷な思いが生きづらさを生み出す、と頭ではわかっているにも関わらず、やっちゃってるわ。

 

せめてそういう冷酷な自分を冷酷な自分として正当化せずに受け入れ、そういう自分を否定しないように、むしろ肯定していこうか(無論それはどんどん人を傷つけていこうということではなく、こんな冷酷な自分はいなくなればいいと否定しないこと、こんな冷酷な自分でも楽勝でここに存在していても良いと肯定することだ)。