おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を責めれば解決するという思考パッターン

苦しんでいる人の特徴の一つは、物事が自分の思い通りにならなかった時に、その原因を他人に求め、他人を責めれば解決すると思っていること。自分の問題は他人を攻撃し、他人を傷つけ、他人を苦しめれば解決すると思っていること。そういう気がする。

 

例えば、飲食店にて料理を注文し、運ばれてきた料理が違っていたとする。

 

その時に店員や店長を責める気持ちが沸き起こってくるが、店員や店長を責め立てたところでその分料理が早く運ばれてくるわけでは決してない。

 

例えば、自分よりも仕事ができて自分よりも高い給料をもらっている人がいる時に、その優秀な人をいじめて不快な思いをさせれば、自分が今仕事ができずに高い給料をもらっている状況が改善すると思っている。

 

他人を責めれば物事が思い通りになるというのは、因果関係として全然成り立たない。

 

私も先日、仕事中に上司にある提案をしてその案を受け入れて貰えなかったことがあった。その際に、どうしてこの人はわからないんだろうと、言動や態度には出さなかったにせよ、冷淡な気持ちが少なくとも起きてしまった。

 

思い通りにならなかったら冷淡な気持ちを起こして解決しようとする根本的な思考パッターンが私にもある証左である。

 

そのような気持ちを起こしても何の得にもならない。ただただ自分が不快な思いをするだけで、実際に言葉や行動によって他人を傷つけたとしても、自分の案が採用されるわけでもないし、相手との関係が悪くなるだけだし、究極的にはその案が受け入れられようと受け入れられまいとどうでもよく、私の日常生活に何の影響も及ぼさないということを考えると、何のメリットもない。

 

よくよく考えればわかることなのについついやってしまうというのはどうしてなのかしらん。

 

それは私たちが、この世には否定してもいい人間がいる、傷つけてもいい人間がいる、馬鹿にしてもいい人間がいる、見下してもいい人間がいる、粗末に扱ってもいい人間がいる、と思っているからだ。

 

わたしたち一人ひとりがそれぞれに自分の都合で基準を設け、こういう人間はどんなに否定してもいい、こういう人間はどんなに傷つけてもいい、こういう人間はどんなに馬鹿にしてもいい、こういう人間はどんなに見下してもいい、こういう人間はどんなに粗末に扱ってもいいと思っているからだ。

 

ミスをする人間は馬鹿にしてもいい。

自分より得をしている相手は傷つけてもいい。

自分の考えをわかってくれない相手は責めてもいい。

 

相手を否定すれば自分の思いどおりになる、という思考パッターンはビクビクした生き方しかできなくなる。あるいは、物事を自分の都合の良いように捻じ曲げる生き方しかできなくなる。

 

ミスをする相手を馬鹿にする人は、ミスをする人を馬鹿にする度合いに応じて、自分がミスを犯すことを恐れるようになる。仮にミスを犯してしまった場合、周囲の誰もその人を馬鹿にしていないにも関わらず、周囲から馬鹿にされているように感じるようになり苦しむことになる。あるいはその苦しみを感じないように、あの人のミスはダメで、私のミスは良い、と自分のミスを正当化する。

 

自分より得をしている人間を傷つけようとする人は、得をしている人を傷つけようとする度合いに応じて、自分が得することを恐れるようになる。仮に自分が得をしてしまった場合、周囲の誰もその人を傷つける意図はないにも関わらず、周囲から傷つけられようとしていると感じるようになり苦しむことになる。あるいはその苦しみを感じないようにあの人の得と私の得は違うと自分の得を正当化する。

 

自分の考えをわかってくれない相手を責める人は、自分の考えをわかってくれない相手を責める度合いに応じて、相手の考えを却下することを恐れるようになる。仮に相手の考えを却下した場合、相手に自分を責めるような気は一切ないにも関わらず、相手から責められているように感じて苦しむことになる。あるいはその苦しみを感じないように、あの人の提案と私の提案は違うと自分の提案や考えを常に正しいものとして正当化する。

 

んじゃあどうすればいいのか。

 

相手に対して冷淡な気持ちが起こった時、自分は相手のどういう側面に対し冷淡な気持ちが起こっているのかを考える。そしてそのような側面は果たして自分にはないのかを考える。相手と同じ状況に置かれた時に、本当に自分は自分の理想通りの言動を行うことができるのかを考える。すると、自分にも相手と同じ側面があることがわかってくる。ということは、自分は自分に対して冷淡な気持ちを起こしているということがわかってくる。他人に冷淡な気持ちを起こすということは自分に冷淡な気持ちを起こすということがわかってくる。自分で自分に冷淡な気持ちを起こしているのだから息苦しいのは当然であることがわかってくる。苦しみの原因は自分であるということがわかってくる。

 

ミスをする人に対して冷淡な気持ちが起こる。私は相手のミスをする側面に対し冷淡な気持ちを起こしている。果たして自分には意図せずともミスをしてしまう側面はないだろうか。あるいは何かを投げやりな気持ちで意図的にテキトーに物事を処理してしまう側面はないだろうか。ありまくる。仕事が山積している状況、先天的な処理能力、日常生活の状況、相手と同じ状況に自分が置かれたとしても自分はミスをすることなんてないぽよと断言できるだろうか。断言できないぽよ。自分にも相手と同じ側面があるではないか、自分が責めようとしている相手は自分ではないか、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいことがだんだんわかってくると、たとえ冷淡な気持ちを起こしたしても、その冷淡さにブレーキがかかるようになってくる。

 

とは言え、冷淡な気持ちが沸き起こってくる時は沸き起こってくる。その時はその時でああいう相手にはこういう気持ちを起こしてもええんやと正当化することなく、自分には冷淡な気持ちがあるなー、ということを認めていくしかない。人を責める代わりに自分の冷淡な側面をその都度受け入れていくしかない。無論、その際に、自分の冷淡な側面を責めてもいけない。責めてしまったら、責めてしまう自分の側面を受け入れて、責めてしまう自分を責めないようにするしかない。許していくしかない。(もちろん、許すからといって、責めることを正当化してどんどん責めて良いということにはならない)

 

このように自分の内面を見つめていくと、冷淡な気持ちというのはどうしようもなく沸き起こってくるものであるということがわかる。理性ではどうしようもないということがわかる。(その気持ちが沸き起こった時に、わかりやすい態度や言動として表面化させるかどうかは理性と劇団四季並みの演技力でどうにかなるかもしれへん)

 

それは相手も同じなのである。自分がそうであるように、相手も冷淡な気持ちを積極的に起こしたくて起こしているわけではない。しかしながら私たちは、自分の場合はどうしようもなく冷淡な気持ちが起こってきて相手を責めてしまっているけれど、相手の場合は意図的に冷淡な気持ちを起こして責めてきているに違いないと段違いな勘違いをしている。

 

よし、いよいよまとまらなくなり、何が言いたいのかわからなくなってきたな。

 

一旦、撤収します。

 

以上です。