おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

無職時代に学んだこと

私は20代の時に無職の時代があったのだけれど、今となってはそれはそれでとても学ぶことが多かったと思う。以下に思いつく限りの「無職時代に学んだこと」を書いてみる。

 

ものは少ない方がいい

働いてお金を貯めては無職となり国内外をふらふらと旅していた時期があったのだけれど、その旅の中で、お遍路をしたことがある。仏教に何らかの興味があったわけでもなく、ただただ歩き旅をしてみたくてはじめたのだけれど、その旅では基本的に毎日の多くの時間を歩くことになる。そして、荷物が多いととんでもなくキツい、荷物が少ないととんでもなく楽、ということを文字どおり身をもって痛感した。そしてどんなに少なくても実際にバックパックの中にある荷物で生活は十分成り立っている。すると、このバックパックに入っていない実家にある自分のものというのは何なのかしらんと考えるようになる。この歩き旅以外でも、ふらふらと旅を続ける内に、ものは少ないに越したことはないという考えは私の中で血肉に染み込んでいき、おかげで今でも、ものをあまり持たないすっきりとした生活を送ることができている。

 

やることはあった方がいい

かったるい労働から解放され、無職になったのも束の間、特にやることもなく、暇を持て余し、ただただダラダラと惰性で時間を過ごすだけの日々が続いた。金は十分に貯まっており、ましてや物価の安い国にいるのでその価値はもっと高くなっている。安宿ではあるが掃除は定期的にやってくれるし、飯も外に買いに出れば解決。自分は金を払うだけで、何も動く必要がない生活。確かに楽だけど、とにかくだるかったし、暇だった。何かをやろうにも何も思いつかないし何の気力も起きてこない。楽だけど、無気力で怠惰な生活というのは、つまるところ、気持ちよくない。同じ無職の状態であっても、祖母の介護をしていた時のほうがやることがあって格段に気分は良かった。やることはないよりはあったほうがいいし、もちろん理想は自分でやることを決めていくことだけれど、何も思いつかなかったら誰かに言われるままに手伝いでもしたほうがいい。暇が延々と続く茫漠とした日々の苦しみは相当だ。

 

莫大なお金は必要ない

無職になると当然収入がなくなるので、その時々の貯金を色々とやりくりをしていかないといけなくなる。当時の私は当然働く気はさらさらないので、以下にこの貯金を間延びさせることができるのか、という思考になり、そうなると当然節約に注力することになる。物価の安い海外に行ってもその節約思考は変わらず、とにかく安いものをまずは探す。それからその値段相応の質で自分は問題ないかということを自問する。時には安さを優先し過ぎて失敗し、不便で不快な思いをしたりもしたが、そうした節約生活を続けていく内に、少ないお金で日々を過ごすことが楽勝でできるようになっていった。1日これだけのお金で十分に生活できるもんなんだなー、生活していく上でお金は必要だし大切だけれど、莫大なお金のためにあくせく働く必要はないなー、と実感できるようになっていった。おかげで私の生活水準は働き始めてからというもの即刻頭打ちとなり、以降、資産額は増えても、生活水準はほとんど変わらない日々が続いている。この生活水準で十分だなー、としみじみ感じる実感は無職時代の賜物なのだろう。

 

瞑想を学ぶことができた

私は夜寝る前に、瞑想を15分間おこなっているのだけれど、この瞑想は無職時代に旅をしていた頃に習得したものだ。この瞑想はヴィパッサナー瞑想という中々有名な瞑想らしく、旅先で出会った人の紹介でまずはやってみることにした。この瞑想を学ぶためには10日間のコースに参加する必要がある。これだけの期間の時間を楽勝で準備できるのは無職の特権だろう。当時の無職の私も暇を持て余していたので、楽勝で参加することができ、コースが終わった頃には、瞑想っていいどすなー、となっていた(ちなみにそのコースは京都で受けた)。海外を放浪していた時もコースに参加する機会があり、ネパールで再度コースに参加した。働き始めてからしばらくは瞑想をできていない時期もあったのだけれど、ここ数年はほとんど毎日15分間の瞑想を行うことができている。無職時代がなければ、今の瞑想習慣がないと思うと恐ろしいことである。

 

無職は肩身が狭い、息苦しい

この世間では学校を卒業したら働いているのが当然という風潮が未だに強いので、無職の人間、特に無職の男は肩身の狭い思いをすることが多くなるのだけれど、実際に私もそうだった。冠婚葬祭の場で友人や親戚と会うと、どことなく息苦しかった。今となってはそれは、自分が無職の人間のことを心の奥底では見下しているからこそ、自分が無職になると、他人から見下されているように感じるし、無職の自分のことを受け入れられず、自分で自分を攻撃しているからだということがわかるのだけれど、とにもかくにも当時は息苦しかった。とにかく人から見下されている、馬鹿にされているような気がして、虚勢を張ることもしばしばあった。無職であることを正当化するために、むしろ働いていることや働いている人を否定しようとして必死になっていた時もあった。アホだったなー。

 

無職は将来不安が大きい

無職は基本的に収入がないため、資産は目減りしていく一方だ。それがそもそもがこころもとない貯蓄額の20代後半から始まるのだから、どんなに長くても数年後には貯金が尽きてしまうということが明らかにわかる。それは本人が痛感している。どうにかしないといけないのはわかっている、何らかの形で働かないといけないのはわかっている。だけれど、先延ばしにしてしまう。それは、この年齢で無職の自分、仕事ができない自分、ろくに働いたことがない自分というのを人は馬鹿にしてくるのではないか、人は見下してくるのではないかと恐怖するからだ。できない自分というのを直視せずに、いつまでもできる自分というイメージに固執するからだ。この年齢で無職、というのは確かにそうかもしれないが、だからといって人が馬鹿にしてくるのかというとそれは完全に自分の思い込みで、なぜそう思い込むのかというと、自分が仕事をできない人を馬鹿にするからだろう。

 

家族との信頼関係は大事

私は無職時代を実家で過ごしたのだけれど、その実家でいい加減働け、いつまでこんな生活を送ってんだ、とどやされることはなかった。それは私が祖母の介護をしたり、祖母を病院に連れて行ったり、掃除をしたり、買い出しをしたり、銀行や役所での各種面倒な事務手続きをすませたり、きな臭い営業をすっぱりと断ったりと、何らかの形で家庭内での役割を果たしていたからだろう。

時間に拘束されることのない、人を手伝える20代の男というのは結構便利で、自分で言うのも何だが、祖母を家で介護していた時、私がいなければ家族は結構しんどかったのではないかと思う。無職であっても家庭内で何らかの役割を担っていると、家族との信頼関係も築きやすくなり結構過ごしやすくなる。



他人任せの一発逆転型の投資に乗りがち

無職は収入がないため、お金の不安に苛まれることが多い。その不安を解消しようと、真面目に働くのではなく、儲かりそうなビジネスを始めてみようとか、儲かりそうな投資に手を出してみようとか、とにかく楽して大金を手に入れるなり、不労所得を得るなりしたいという気持が強くなってくる。無職になると、無職である自分を正当化するために毎日働くことを見下して自分を無理矢理肯定しようとする。そうなると、働いていることを否定しているが故に、自分が働くという選択肢も取りにくくなる。理想は働かなくても金を得られるという状態を作り出し、ほらやっぱり真面目に働くなんて奴隷のすることなんだ、と他人を見下し、おれはできる人間なんだ、正しい人間なんだ、というセルフイメージに酔いながら日々を過ごすことを幸福として夢見るようになる。楽して金を稼ぎたい、他人を見下したい、そういう思いが強い時にきな臭い投資の話を聞いてしまうと一気に靡いてしまう。

私も何度か失敗したことがある。どれも無職時代に海外を放浪していた時で、旅先で出会い、それなりに信頼できると思っていた人々(中には日本人もいた)から、ビジネスや投資の話を持ちかけられ、日々に倦み、お金の不安もあった私はそれらの話に乗り、結果、数十万もののお金を溶かす羽目になってしまった。その時は惨めな思いをしてつらかったが、今となってはいい経験だったと思うし、別にその人達のことを恨んでもいない。あの時まで、自分は騙されない賢い人間なんだと自惚れていたが、そんなことは決してなかった。諸々の条件が揃えば、自分はどんなに愚昧なこともやらかしてしまう大馬鹿野郎なのだと痛感した。そして、他人任せの一発逆転の投資やビジネスは幻想だし、そういう幻想にすがらくても良いように(いつ何時、自分が再びすがってしまうかわからないからな)、お金は自分でまじめに働いて稼ぐなり、自分が管理できるビジネスを始めるなりして稼いだ方がいいと至極平凡な結論にようやっとたどり着くことができた。

 

生活にメリハリがなくなり、たるんでくる

無職になると、始業時間に拘束されることがなくなるため、何時に起きてもいいような生活が楽勝で始まり、瞬く間に生活リズムが崩れていく。私もご多分に漏れずに昼夜逆転どころか自分が明日、朝に起きるのか昼に起きるのか夕方に起きるのかさえわからないような生活リズムに陥ったことがあった。睡眠時間こそ十分にとれているのかもしれないが、気分は最悪だった。何度か生活リズムを立て直そうとした時もあったが、そもそも立て直す目的が明確ではなく、一度崩れても元通りに戻せばいいだけのものを、ただただ放っておく羽目になってしまった。あの時は自分を大事にしようという意識さえ微塵もなかったのだろう。あの生活リズムの乱れによる気だるさはもう繰り返したくないし、今の規則正しい生活のほうが心身が健やかで気持ちがいい。いい経験だった。

 

掃除習慣が身についた

無職時代に介護をやっていて、祖母がデイサービスに出かけると、特にやることもないので、家の掃除をするようになった。祖母の介護用のトイレを洗ったり、祖母のベッドを整えたり、祖母を風呂に入れたり(それらも掃除の一環だ)。介護が必要な高齢者がいると、家の中が汚れやすいし、介護士なんかの人の出入りも増えるからな。掃除をするとやっぱり気持ちが良く、気持ちが良いので次第に難なく掃除をやれるようになっていった。今でも掃除は好きで、毎週末は部屋の中を一通り掃除することができている。掃除習慣を身につけてくれた無職時代の自分にまじで感謝。

 

運動習慣が身についた

無職であってもストレスは溜まる。何もやることがないストレス、自分と向き合う時間が多いが故のストレス、人と比べてしまい劣等感を感じてしまうことによるストレス。だけど、金は散財できない。金のかからない最高のストレス発散法が運動で、私は2日に1度のペースで近所を20〜30分ほどジョギングしていた。その時に身につけた運動習慣が今でも継続していて、筋トレやジョギングをすることが完全に日常化している。おかげで、日々のストレスを健全な形で発散することができている。この習慣を取り入れた無職時代に自分にまじで感謝。

 

無職はしっくりこない

私は大学時代に特に就職活動もせず、自ら選んで無職になり、30手前に就職するまで、ニート・フリーター生活を送っていたが、それらの年月を通じて、私には無職はしっくりこないということがわかった。私には脳髄があり、体があり、時間があるが、無職だとそれらをきちんと使ってあげられない。使い切れずにそのほとんどを持て余してしまい、悶々としてしまう。無職であっても、それらをきちんと使ってあげることができる人もいるのだろうけれど、私にはそのような能力はないということがわかった。私の場合は、実家を出て人並みに働いた方が、家事や仕事を通じて心身をきちんと使えるし、運動や読書や勉強もやりやすくなる。無職時代に比べて働いている今の方が生活は整っているし心身の調子もすこぶる良い。金の亡者、会社の奴隷のように働くつもりはないが、無職を経験したことにより、自分には働いている方が生活全般が整いやすいということがわかり、働くことの良さもわかった。しかしながら、諸行無常の理により、会社員には定年という宿命がありいずれ無職なることが決定しているため、無職になっても生活を整えられるような自分を作っていく必要がある、あるいは小さいながらも定年のない仕事を始めておく、作っておくというのもありかもしれない、願わくば、その両方を実現できると良いのかもしれない。

 

さいごに

世間には無職の人間を嘲笑したり、馬鹿にする傾向が依然としてあるが、それはそれでいいとして(そういう人は他人を否定して自分を肯定したいだけで、その人はその人なりに苦しんでいる)、無職という経験からは学ぼうと思えば多くのことを学ぶことができる。その時々は何かを学んでいるという実感はないかもしれないけれど、振り返れば、反省するべき点や良かった点や今の自分にがっつりと影響している点等が見えてきて面白い。

 

少なくとも私は、無職の人やこれから無職になろうとする人のことを面白いことを学んでいる人、面白いことを学ぼうとしている人として肯定していきたいと思う。

(だから言って、働いている人を否定したり馬鹿にしたりしたいというわけでは当然なく、無職の人も大事な存在であり、無職だから馬鹿にしてもいい、無職だから見下しても良いとは到底思えないということだ)

 

P.S.

自堕落だった無職時代の自分にまじで感謝。