おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

私もプー太郎が好きだ

私は大学時代はろくに就職活動もせず、卒業後はニートになったのだけれど、そのニート時代に以下の文章に出会ってすごく救われた。

 

新聞やテレビがニートを問題にするとき、「生涯で得られる収入の差が正社員とアルバイトでは二億円になる」とかそんな金の話ばっかしているが、人生の意味や価値を金に換算しようとは思わないからこそ、プー太郎という人生を選んだのだ。そもそも人生の時間と二億円のどっちが本当に貴重だろうか? 即座に「二億円」と答える人の方が間違っていないか。

 たとえば、近所に農家があったとして、そこからあまった野菜をもらってきて、漬物をつけていたらGDPは一円もカウントされないが、同じその時間にパチンコをやっていたらGDPに計上されて、国家の豊かさが増したことになる。そういう計算しか存在しない社会がだいたいおかしいわけで、「二億円」という答えもその一環だと考えるべきだろう。

 

 プー太郎は、決まりきった社会性を拒絶したから、高校や大学を途中で辞めたり、会社に入らなかったり、入ったとしても辞めたりした。

 

彼らにはやっぱりプー太郎としての共通した雰囲気がある。あくせくしない。金を評価の尺度にしない。だから金に汚くない。面倒くさいと思ったら、さっさとやめる。自分中心に考えていなくて、けっこう無私のところがある。だから私は、(中略)プー太郎の友達が多いことを誇らしく思っているし、彼らから嫌われたくないとも思っている。

 

以上は、保坂和志さんの『いつまでも考える、ひたすら考える』に収録されている「プー太郎が好きだ!」に書かれていることなのだけれど、当時の自分のモヤモヤをきれいに言語化してもらえたような気がしてすごく嬉しかったことを覚えている。

 

ニートや無職の人で、こんな自分はダメだぽよ、と肩を落としている人にはこの章だけでもいいので是非読んでもらいたいと思う。働いていない、ただそれだけで自分を否定してしまうのは間違っている。

 

現在は私はニートでも無職でもなく、会社員として働いている状態ではあるのだけれど、私もプー太郎が好きだ。

 

1日8時間の5日間労働に従事する人を見て、ニート時代はよく「人間あんなに働かないと本当に生きていけなのいのかしらん」と思っていた。

 

それから海外を放浪するために期間工として働き始めた時も「人間はこんなに働かないと本当に生きていけないのかしらん」と思っていた。

 

それから正社員として働いている今も「人間はこんなに働かないと本当に生きていけないのかしらん」と思っている。

 

「人間こんなに働かないと生きていけないのかしらん」の答えは、人それぞれの優越感を求める大きさによるだろうけれど、少なくとも私としてはその疑問に対する答えは否で、私はこんなに働かなくても全然生きていけると思う。

 

(んじゃあなんで私は生きていくのに必要な量以上に働いているのかというと、いろいろな試行錯誤の末、1日のリズムや1週間のリズムとしてその方がメリハリがあって、心身が総合的に整いやすいからで、諸行無常の理によってその量やリズムが合わなくなったら、全く働かなくなるというのはないかもしれないが、ダウンシフトすることは十分にあり得る。)

 

私たちはどこか拝金主義的なところがあって、もちろんお金は生きていく上で大事なので、粗末にすることはできないのだけれど、何事もお金に換算しなければ、物事の価値を測ることができないようになってしまっている。

 

そうなると次第に息苦しくなってくるのだろう。全てが数字に換算されて、全てが比較可能なものになり、そこからどちらが上なのか下なのか、どちらが価値があるのかないのか、どちらが得をしているのか損をしているのか、という際限のない世界に引きずり込まれていってしまうからな。

 

金額やGDPだけの単純な世界とは別に、より複雑で豊かな現実というのは実際に存在して、そこでは金やGDPには計上されないけれど、いや良い時間だなー、ありがたいなー、としみじみ思える良い時間というのがある。そして、そういう時間というのは確かにあるのに、換金しなければ物事の価値を測ることができない状態だと、そういう時間に価値を見いだせない、というかそもそもそういう時間の存在に気がつくことさえもできない。

 

そういう拝金主義的傾向が希薄あるいは皆無という意味で、プー太郎という存在はとてもありがたい。

 

おそらくニートや無職の人であっても拝金主義的傾向の強弱には差があるように思う。

 

拝金主義的傾向が強い人は、大金を手に入れて他人を見下し、自分は価値のある人間だとアッピールすることで、自分を肯定しようとしているにも関わらず、無職無収入の状態にあるが故に、自分が金を根拠に他人を見下そうとしている分だけ、自分が他人から見下されているような気がしたり、人を見下せるような大金を持っていない自分には価値がないと自己否定してしまったりして苦しんでいる。これはニートや無職ではあってもプー太郎ではない。

 

拝金主義的傾向が弱い人は、仕事の有無や大金の有無と自分の価値が切り離されている、あるいはそれらと自分の価値とのつながりが希薄であるために、自分の価値を高めるために金を求めてあくせくと労働に勤しんだり、金を出し惜しみするようなことない。金が入ってこようと、金が出ていこうと、自分にとっての自分の価値、自分にとっての自分の大切さが一定の高い状態のままで変動しないからだ。自分にとって自分は大切なので、自分を大切にできなくなるくらいに働き過ぎたりすることもないし、金を他人のために使い過ぎたりすることもないし、他人のために動き過ぎたりすることもない。つまり、自分が気持ちの良い範囲で他人のために動くことはあっても、自己犠牲することはない。こういう人がプー太郎なのだろう。

 

そう考えると、私はニートだったけれど、プー太郎ではなかった。だから息苦しかったのだろう。

 

今は働いているけれど、プー太郎の良さに気が付き始めている。というかプー太郎に敬意を持っている。プー太郎的な心境に魅力を感じてしまう。

 

かつて無職で実家暮らしをしていて、11時くらいに目を覚ますと同時に1通のメールが入った。それは無職の友達からのメールで、「今から釣り行くぞ」という一言だけのメールだった。無論、その日はその友人と日が暮れるまで防波堤での釣りを楽しんだ。

 

思い出すだけでありがたいと思う。

 

「保坂さんのまわりにはどうしてこんなに何人も”ぷらぷらおじさん”がいるの?」

私は自分が褒められたみたいに誇らしかった。

 

やっぱり私もプー太郎が好きだ。