人は誰しも、客観的な世界に住んでいるのではなく、自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいます。あなたが見ている世界は、わたしが見ている世界とは違うし、およそ誰とも共有しえない世界でしょう。
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』
先日、友人と街を歩いていると交差点で怒鳴り散らしているおっちゃんがいた。
私たちにはそのおっちゃんが何に向かって激昂しているのか皆目見当もつかなかった。
おそらくそのおっちゃんには何か悪いものが見えていて、その悪いものに対して憤怒が込み上げてきて、怒りの雄叫びをあげていたのだろう。
私たちには見えないものがおっちゃんには見えていた。
そしてその見えていたものは、私たちと共有できないという意味では客観性はないのだけれど、やはりおっちゃんには確かに見えていたのである。
私たちにとってそれは現実ではないが、おっちゃんにとっては紛れもない現実なのである。
おっちゃんはおっちゃんの主観的な世界の中に生きている、というのはそういうことだ。
これはおっちゃんが狂っているということではない。
わたしたちもそのおっちゃんと同様に自分の主観的な世界の中にいて、自分にだけ見えるものを間違いのないものとして段違いな勘違いをし、おのおの好き勝手な感情を起こしては喜怒哀楽している。
「自分は正しい」という大前提で、自分に見えているものの確かさを特に確認することもなく絶対視している。
そういう意味でわたしたちはみんな狂っているのかもしれない。
交差点で咆哮していたおっちゃんと変わるところは何もなく、おっちゃん、おれも同じやで、と声をかけたくなったが、怒気がすごくてびびっちまった。
だからと言って、「自分は間違っている」という前提に立つ必要はない。
というかどう頑張っても立てない。
わたしたちはそれぞれが「自分は正しい」という大前提で、息をするように間違っていると思われる他人を責め立てたり見下したりしている。
例えば、私がハゲている人を馬鹿にしているとする。
その時私は、自分は絶対にハゲないという前提に立っている。
だから平気で馬鹿にできる。
自分は正しい。
そしてその正しい自分が「自分はハゲない」と思っている。
だから私はハゲない。
(わたしたちの思い込みはこれほどまでに薄っぺらいのだけれど強力だ)
しかし、その自分の正しさというのは単なる思い込みであり、諸行無常の理によって、現実は自分の勝手な思い込みとは無関係に存在し、作用し、自分がハゲることは十分にあり得る。
そして諸行無常の理によって実際に自分がハゲた時に、それまで自分がハゲの人を馬鹿にしていた分だけ、ハゲた自分が馬鹿にされているような気がしてくる。
周囲の人間は何も思っていないにも関わらず、自分には他人が馬鹿にしているような気がしてならなくなってくる。
そういう主観的な世界ができあがり、自分にはハゲている自分を馬鹿にする人の姿が見えたり、声が聞こえてきたりする。
ハゲるハゲないという具体的なこと以上に、「自分は正しい」という大前提が崩れる。
私は、正しい人間は間違った人間を馬鹿にするという主観的な世界にいる。
だから自分が正しいと思えている間は、間違っている人を思いっきり馬鹿にすることができる。
逆に自分が少しでも間違うようなことがあったら、人から馬鹿にされてるように感じてしまう。
だから、自分の正しさが崩れそうになると、おれは間違っていないぽよ、こんなに正しいぽよ、と激昂する。
そういう生きづらい主観的な世界ができあがる。
あのおっちゃんもそういう世界にいるのかもしれない。
自分は色眼鏡を通して世界を見ている、自分は間違っているかもしれへんどすなー、くらいの前提ならまだ立てると思う。
自分が見えている世界、感じている世界を絶対視しないように、声出して切り替えていこうと思う。