先日、音読している本を読み終えた。
音読していたのは Steig Larsson の “THE GIRL WHO PLAYED WITH FIRE”。
日本ではミレニアムシリーズの第2部『火と戯れる女』だ。
音読はほぼ毎日15分行った。
9月くらいから始めて、ようやく今月読み終えた。
自分にとって読みやすい外国語の本を音読するのは脳にとっていい。
特に学生時代は「英語が話せる」ということを根拠にして人を見下して優越感を得ようとして、ネバギバの精神で英語の勉強を頑張っていた時期もあったのだけれど、そのようなモチベーションだと勉強が強迫的になるし、つまらなくなるし、続きにくい。
人から称賛されるような結果や実績を得るために頑張ると疲弊するだけだ。
今の日常における「音読」は、英語を話せるようになって、価値のある自分というイッメージを作って、自分は価値のある人間なんだということを人にアッピールするためではなく、単純に自分の脳髄を使うことにより、自分の脳髄なり自分自身を整えることが目的だ。
だから、15分間取り上げず声に出して読むだけで、わからない単語を逐一調べるようなことはしない。わからない構文の分析もいちいちしない。
これはお勉強ではなくただのエクササイズで、ラジオ体操のようなもので、だからこそ、自分にとって読みやすい本を選ぶのがいい。
そして、1日15分の音読をやり終えると、本の面白みも感じるし、頭の整いも感じる。
これで目的達成である。
何かを習慣にするには、自分を整えることを目的にして、それをやれば自分が整うことをやるといい。
そうすると、やる度に自分は整い、「自分を整える」という目的が達成され、続けやすい。
続けていくうちに、何らかの結果や実績につながっていくこともあるかもしれないが、すでに「整える」という目標は達成されているので、結果や実績は実際はどうでもよく、おまけのようなものだ。
一方で、人から称賛されるような結果や実績を目的にしているということは、その結果や実績で自分の価値を規定しようとしているということになる。
とうことは、結果や実績のない自分はダメ、結果や実績のある自分は良い、という意識で日々を過ごすことになり、人から称賛されるような結果や実績を手にしていない自分に対する自己嫌悪や自己否定で過ごすことになり、このままじゃダメだぽよ、もっとやらないとダメだぽよ、と強迫的になり苦しくなり、結果、続けることができなくなる。
また、人から称賛を得られるような結果や実績というのは、努力したからといって必ず得られるわけではない。
そのため、人から称賛されるような結果や実績で自分の価値を規定しようとすると、得られなかった時に、自分は価値のない人間だとして自己否定の気持ちが起こるし、得られても、その結果なり実績なりを失わないように不安にかられ強迫的な努力を始めるか、失った後も過去の結果や実績に執着して、その過去の結果や実績をもってして「価値のある自分」というイッメージにしがみつこうとしてしまう。
価値のある自分のことしか認められない人、人のことを認められない人(人のことを認めてしまうと、相対的に自分は価値がないということになってしまう、と思ってしまうからな)になってしまう。
そうなると、自分との関係、他人との関係がうまくいかなくなってしまう。
話を戻そう。
外国語を処理するというのは、脳にとっても心地の良い刺激になるのか、外国語をある程度操れる人はボケにくいというデータもあるそうだ。
脳髄を整えるための習慣として外国語の本の音読はオススメだ。
ミレニアムシリーズはまだまだ続きがあるので、次は第3部を注文した。
これからも淡々と続けていこう。