おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

久々に帰省して感じたこと

先日、久しぶりに帰省し実家で数日間を過ごした。

 

基本的に姪っ子や甥っ子や犬と遊んで過ごし、良い時間を過ごすことができた。

 

私はかつてアジアをふらついていた時期があり、その際に立ち寄ったインドでふと思ったことがある。

 

目の前にはとんでもない数の人がいるが、誰一人として実家の家族のような関係の人はいない。私にとって母というのはあの人しかおらず、父というのはあの人しかおらず、祖母というのはあの人しかおらず、妹というのはあの人しかいないんだなー、という当たり前のことを改めてしみじみと感じた。

 

そんなことはインドに行くまでもなく当たり前のことなのだけれど、私のように脳髄ががらんどうであると、案外と気づかない。あの膨大な人海を見て、そしてその中に私と人間関係が作られている人が誰もいないことを痛感して初めていかに家族というものがとんでもなく貴重な存在であるかということに気がつく。そしてそういうことも3歩歩けば忘れてしまう。情けない自分でござる。

 

実家に帰って思ったことは、モノが多い。

 

実家には母と妹夫婦とその子供たちが住んでいて、彼らのものに対してとやかくいうつもりはないのだけれど(もちろん、使っていないものは捨てたほうがいいということはほのめかすけれど、説得はしない)、そもそも私の部屋にものが多い。

 

大量の本があり、買ったもののあまり履いていない靴が何足かある。

あとはかつて旅をしていた時に買った記念品みたいな感じのニュアンス的なものもある。とにかく、東京にいる私が使っていないもの、実家に帰ってきたとしても使わないものが大量にある。

 

どうするか。

 

使っていないものは捨てるに限る。

 

ということで、本は4冊を残して本棚2つ分の本を処分した。残した数冊は東京に持ってきて、これから読んでいこうと思う。そして読み終わったら捨てていこうと思う。

 

靴は1足を残し(サンダルで帰省した時に使う)、あとは処分した。

 

その他の部屋のものも、帰省した時に使うものか使わないものかを基準として、使わないものに該当するものは基本的に全て処分した。

 

その結果、部屋がより一層すっきりとし、自分の心もすっきりした。

 

多くのものを処分すると、自分にとって必要なもの、自分が使うことができるものの量は本当に少ないということ、全てのものは必ず自分から離れていくものであるということ、生まれてから死んだ後まで持っていける本当に自分のモノといえるものはないということ、そういうモノをかき集めたり、そういうモノを通じて自分を定義づけることに意味はないということ、そんな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいことがだんだんとわかってくる。モノをかき集めては捨て、かき集めては捨てということを繰り返していくと、脳髄ががらんどうのさすがのわたしでもわかってくる。

 

また諸行無常の理によって、甥っ子が歩けるようになっていた、姪っ子が普通に会話できるようになっていた、あんなに元気だった愛犬がガリガリに痩せてほとんど寝たきりの状態になっていた。

 

愛犬は家族皆でかわいがってきたきたが、どんなに大切にしていても諸行無常の理によって全てのものは消えていく。それは絶対だ。だからといって身近なものを大事にしなくてもいい、粗末に扱ってもいいということにはならない。自分も相手も含めていずれ消え去るのだから、大事にし続ける必要がある。大事にするからこそ、物事はどんなに大事していても消え去る時は消え去るのだという諸行無常の理を痛感することができる。

 

学びの多い実家での日々でありんした。

 

以上です。