おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

価値あるものを集めても価値のある人間にはならない

私たちの心の奥底には、誰からも相手にされないことに対する根深い恐怖がある。

 

それは見捨てられるという恐怖、ないがしろにされるという恐怖、認められないという恐怖とも言える。

 

私たちはその恐怖に駆り立てられて、価値のある人間になれば、人から相手にしてもらい、人から認めてもらい、人から大切されると考える。

 

そして私たちは「価値のある人間」として他人から認めてもらうために「価値のあるもの」を手に入れようとする。それらは例えば、お金であり、名声であり、地位であり、権力であり、美貌であり、健康であり、知性であり、とにかく不特定多数の人間が価値があると認めるものだ。

 

私を含めた大多数の人が、「価値のあるもの」を少しでも多く手に入れようと試行錯誤し、膨大な時間と労力とお金を注ぎ込んでいる。

 

それらの「価値のあるもの」に価値があることは確かであるが、それらの「価値あるもの」は「私」ではない。「自分」ではない。

 

その証拠に、それら「価値あるもの」は人の手に渡ることもあるし、朽ち果てることもあるし、時代や場所によって価値自体が変動することもあるし、何よりも死んでしまったら一つ残らず手放さなければならない。結局のところ、「価値のあるもの」は不確かで不安定な借り物でしかないわけだ。

 

徒然草に、「多くの人の人生は、春の日差しの下で溶けゆく雪だるまを必死に飾ろうとしているようなものだ」みたいな感じのニュアンス的な記述がある。

 

また、方丈記に、「束の間住むだけの住居のためにこんなにも必死に努力して何の意味があるのかしらん」みたいな感じのニュアンス的な記述がある。

 

これらを貫いているのは仏教の諸行無常という真理だ。

 

物事はたとえ価値のあるものであっても常に移ろい変わる。そして、その価値あるものをいくらかき集めても、自分の価値にはならない。

 

何かを手に入れようとしている時、その価値によって自分を価値ある人間であるかのように見せようとしていないか、努力の方向性が結局は無駄になる方向に向けられていないか、時々でもいいから見直していこうと思う。