おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

かき集める好きと大事にする好き

私たちには一人ひとり好きなものがあるが、ただ一言好きと言っても、大きく分けて2つの好きがあるように思う。

 

かき集めるのが好きなのか、大事に使うのが好きなのか、その2つだ。

 

私はかつて、特に学生時分に、スニーカーが好きで、20足以上持っていた時があったが、これは「かき集めるのが好き」に該当する。

 

当然、持っていたスニーカーの多くはほとんど履いていない。ものを使うための時間や労力は絶対的に限られているので履ききれない。

 

私がやったことは手に入れた直後にしばらく眺め、何度か履いて、あとは靴箱で眠らせるだけだ。そして今ではその全てを手放している。(おいどんは一体何をやっているのか)

 

仮にスニーカーに人格というものがあったとして、そしてそのスニーカーの身になって考えてみると、実に可哀想だと思う。あるのに使って貰えない、見てもらえない、相手にしてもらえない、あってもなくても気づかれない。そして持ち主は別のスニーカーを新たに手に入れようと鼻息を荒くし、ルンルン気分で、アラレちゃん走りで買い物に出かけている。しかも私ではない靴を履いて。ぴえんだろう。

 

あるのに使ってもらえないとしたら、いっそ手放してもらい、灰となり、ばらばらになり、今一度何か別の形となって使ってもらったほうがよほどモノ冥利に尽きる。

 

仮にある職場に雇われたとして、自分が同様の立場におかれたら辛いだろう。楽して給料をもらえるからラッキーと思う人もいるかもしれないが、あまりの退屈さに発狂してしまうだろう。仮に自分の恋人から、付き合っているにも関わらず、一緒に時間を過ごしてくれない、相手にしてくれない、空気のように扱われる、自分ではない人をずっと追いかけているという扱いを受けたらぴえんだろう。

 

そばにいるのに相手にしてもらえないのだとしたら、いっそ自由になり、ちゃんと相手をしてくれる人のもとで働いたり、時間を過ごしたりしたほうが真っ当に幸せである。

 

かき集めるのが好きだと、あるのに見ないという状況が生じやすい。すぐに別のものに注意を持っていかれるために、あるのに見ないということが習慣になってくる。

 

ものであれば実際にそこに人格はないので傷つくことはないが、一事は万事であるということを鑑みると、あるのに見ないという習慣は自動的に自分や人に対しても適用される。すると人は当然傷つくし、寂しさを覚えるし、表面的な会話ばかりになり人間関係は深まらない。自分は自分で、自分のことを見てあげることができず、自分が何を考えているのか、自分が今どういう思いを起こしているのか、自分はどうしたいのか何をしたいのか、何が嬉しくて、何がつらいのか等、自分のことがとにかく見えにくくなる。ぴえんだ。

 

一方で、かき集めることではなく大事に使うことを重視すると、当然自分が使ってあげられる量、管理できる量、ケアできる量のものしか持てなくなる。その量を超えてしまうと全てが中途半端になり大事にできなくなるからな。

 

自分が大事にできる範囲内にものの量が収まると、その一つ一つをきちんと見てあげることができる。傷んでいないか、減耗していないか、故障していないか、汚れていないか等の異常に気が付きやすくなる。ものの量を自分が大事に使うことができる範囲内に収めていくと、対象をきちんと見るという習慣が身につく。

 

そして一事が万事であるために、その習慣は他人や自分に対しても適用される。

 

すると、人の表層だけではなく内面にも注意を向けることができるようになる。自分がそうであるように、人は外面ではなく最終的には内面まで気にかけてもらえると、嬉しさを覚えるし、内面まで受容してもらえると安心感を覚える。すると人間関係が深まりやすくなる。

 

また、自分自身の内面にも目を向けやすくなり、自分の感情や思いを把握しやすくなる。自分の内側でどのようなことが起こっているのかを観察しやすくなる(これはある種の瞑想状態だ)。すると、感情は感情としてあるがその感情に振り回されて行動することが減ってくるし、自分で自分を見ることができるようになってくるので寂しさも減ってくる。(寂しさへの対処法は人に自分の内面をちゃんと見てもらい受け入れてもらうか、自分で自分の内面を見て受け入れていくしかない)

 

私も少しずつではあるが「かき集める好き」から「大事にする好き」へシフトできているように思う。

 

筋トレは筋肉をかき集めるためにやるのではなく、体をきちんと動かして大事にするためにやる。体を大事にするためにジャンクフードを極力避ける。酒も極力飲まない。十分な睡眠をとる。ちゃんと使うものにはちゃんとお金を使う。自分やよく使うものをケアするためにはちゃんとお金を使う。1ヶ月以内に一切触れないようなものがあるという事態がないように注意を払う。こんな感じのニュアンス的な雰囲気の塩梅っぽいスタンス風のベクトルチックじみたことを少しずつではあるが実践できるようになってきた。

 

これも整理習慣(使っていないもの、使わないものは捨てる習慣)のおかげである。

 

これからも続けていこうと思う。