おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

LINEの返信が返って来ない時に見える世界

二人でご飯を食べに行く約束をした女性(Aさん)がいる。ちなみに恋人ではない。

 

先日、店の予約をしてその旨をAさんに伝えたのだけれど、返信が2日ほどなかった。

 

その時に私が感じたことは、以下のとおりだ。

 

 ・Aさんはもしかして乗り気ではないのではないか

 ・当日の予定を断る口実を考えているのではないか

 ・ないがしろにされている

 ・テキトーに扱われている

 ・どうでもいいと思われている

 ・もっと早く返信してもよかろうもん

 ・駆け引きされている可能性もあるな

 

実際問題、Aさんがどのような心境、どのような事情で返信を2日間返さなかったのかというのは全くもってわからない。実際に本人に聞いて確かめるまでわかりようがない(聞こうともまったく思わない)。にも関わらず、私は上記のようなことを感じて少し嫌な思いもしたし不安な気持ちにもなった。つまり、私は真相がわからないものを自分勝手に解釈し、その自分勝手な解釈によって少しばかり苦しんだ。

 

これは仏教が説く因果の道理に則った物事の見方で、ここで面白いところは、私が苦しんだのはAさんのせいではないという点だ。

 

Aさんからの返信が遅かったから私は上記のことを感じたわけではなく、その原因は、私が日頃からどうでもいいと思っている相手には返信を遅くしていて、駆け引きをするためにあえて返信を遅らせているからなのである。自分が普段やっていることや思っていることが、Aさんから返信がないことをきっかけに見えただけなのである。つまり、私は自分の日頃の行いや思いのせいで嫌な思いをしたということだ。自分の苦しみの原因は自分にあるということだ。

 

となると、Aさんを責めても意味がない。仮にここで責めてしまうと、自分が責めた分だけ、自分の返信が遅くなる時に相手から責められているように感じやすくなる。それはそれで気持ちが良くない。

 

んじゃあ、どうするべきかしらん。

 

まずは私の行動を変える必要がある。日頃からどんな人であろうと大事に思ってLINEの返信はその日中に返す。あるいは、人によって返信速度に大きな差を設けない。人の気を引くためにあえて返信を遅らせるようなことはしない。

 

まずはこれを基準として心がける。

すると、この基準が意外と難しいものであることが知らされてくる。

常に誰にでも気持ちよく円滑に返信を行うということが、いざ自分が実践しようとすると、そう簡単にできるものではないということがわかってくる。

 

ということはどういうことか。

 

こんなに難しいことを自分は相手に要求しており、それができないとなると相手を責めようとしているわけだ。それは酷だろう。

 

こう考えることができると、相手ができなくてもそれは簡単なことではないのだから仕方がない。私もできないからな。相手も私も変わらへんわいな。と寛容になれる。

 

だからといって、私はできるのに相手はできない、あいつが悪い、あいつはだめだと相手を責めてしまうと、そうすることによって、できない人は責められるという価値観が醸成されていき、それは望ましいことができないと人から責められるから(実際に責める人はいないのに責められているように感じてしまうから)責められないように望ましいことすべてをできるようにならなければならないというものすごく息苦しい価値観へと発展していく。望ましいことすべてを実現できることは仏でない限り実際には不可能なのだから、その人は都合の悪いところはすべて正当化しようとするし、消し去ろうとして自己否定に走る。その自己否定が大きな苦しみを生む。

 

話を戻すと、AさんからのLINEの返信がしばらくなかったおかげで、日頃の自分の粗末な行いや幼稚な思いが見えた。それらを否定して消し去ろうとしても苦しむだけなので、粗末なところや幼稚なところが自分にはあるということを受け止め、日頃から誰にでも気持ちよくLINEの返信をすることを心がけていこう。

 

Aさんとゴータマ先輩に感謝。