おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

身の回りの稼働率はどうか

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先日、ヌッチョ・オルディネさんの『無用の効用』という本を読んだ。

この本は私にとって色々な思考を促してくれることの多い本だったので、これからも折に触れて、この本を通じて考えたことを文章に書いていきたい。

 

あらゆる分野の知、あらゆる種類の人間関係は、所有への欲求によって破滅的な影響をこうむることがある。モンテーニュが鋭く指摘しているとおり、「わたしたちを幸福にするのは、所有することではなく、楽しむこと」なのだ。

 

わたしたちは日頃からものを買い込んだり、溜め込んだりして、何かを所有すること自体に楽しみを見出してしまいがちで、だからこそ、あるものを手に入れたと思ったら、それをろくに使いもしないまま、ろくに楽しみもしないまま、別のものを手に入れようとフッ軽で動き出してしまう。

 

自分の持ち物の量、人間関係の規模が、自分がきちんと使うことができる量、見ることができる量、管理することができる量、ケアすることができる量、その範疇に収まっているのであれば、持ち物や人間関係を楽しめるだろうし、その楽しみが幸福をもたらしてくれる。

 

一方で、その限界量を超えてしまうと、増え過ぎたものはきちんと使ったり、管理したりすることができない。大きくなり過ぎた人間関係においては、一人ひとりに十分な時間を割いたり、相手に十分な注意を払ったりすることができず人間関係が深まっていかない。つまり、持ち物や人間関係を十分に楽しむことができない。

 

持ち物が多いこと、人間関係の規模が大きいことは一見すると華やかに見えるし、すごそうに見えるのだけれど、量や規模が大きい分、その稼働率は低くなる。言い換えると、稼働率の低い人の周囲では、持ち物の量や人間関係の規模の割には、物事に躍動感がない。だから、どことなく寂しさを覚え、その寂しさを埋めるために新しいモノや人を求めていく。

 

稼働率が低い場合、稼働率を上げるには分母の数を減らしつつ、分子の数を増やしていくのが一番なのだけれど(つまり、もので言えば、使っていないもの、使い切れないものは手放して、残ったものをきちんと使う、使い切るのが一番なのだけれど)、我々には執着というものがあり、この執着というのは分母の大小によって自分の価値を定義しようとする心で、この傾向をネバギバの精神でどうにかしない限り、稼働率は一向に低いままだ。

 

そして、その執着をどうにかするためには、やはり使っていないものを捨てたり、付き合いのない人の連絡先を消したり(その人との人間関係をぶった斬るわけではない)する必要がある。

 

諸行無常の理によって、自分にとっての最適な分母は変化していくし、分子も自分自身の変化によって一定ではない。

 

自分の身の回りの稼働率はどうか、身の回りのものはきちんと使えているか、体をきちんと使えているか、頭をきちんと使えているか、大事な人ときちんと話せていえるか、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことを自問自答しながら、なるべく稼働率が高い日常生活を送れるように心がけていきたいざんす。