すべてを犠牲にして、自分は、この国は何を得たのだろう。何が好転したのだろう。
小川哲『地図と拳』
ナチスの思想の中では「アーリア人」は「価値のある存在」とされ、ユダヤ人は「価値のない存在」とされ、「価値のない存在」をこの世から葬れば「価値のある存在」の「価値のある存在」よる「価値のある存在」のための世界ができ上がるということになっている。
登場人物たちも自分たちを「ドイツ国籍」かどうか、「日本国籍」かどうか、「アーリア人」かどうか、「ユダヤ人」かどうか、「ナチス」かどうか、「共産主義」かどうか、「非国民」かどうか、といった、自分がどのカテゴリーに属するのか、自分のレッテルは何なのかということ問題にしていた。
そういったレッテル・記号・象徴で自分の価値を規定しようとしていたし、そういったもので自分の価値は決定されるものという思想を共有していた。
レッテルの価値で自分の価値を決めようとする思考パッターン。
しかしそういったレッテルは諸行無常の理によって変転する。
「ナチス」「アーリア人」=「正義」という価値は戦争に負けたことによって「悪」になり、かつて自分たちが正義を自称していた頃に悪とみなしたものを駆逐していたように、次は新たな自称「正義」(連合軍等)により自分たちが駆逐されるようになった。
レッテルや記号や象徴によって自分の価値を規定しようとする思考パッターン、規定できるとする思考パッターンは、何も自称ナチス党員や自称大日本帝国臣民の人間だけのものではなく、今日の私たちも息をするように楽勝で保持しているし、その思考パッターンに振り回されて一喜一憂している。
レッテルや記号や象徴の中身が異なるだけで、大きな構造は同じだ。
私たちは自分ではないものを自分自身であると錯覚してしまう。
例えば「日本」という記号で自分を定義し、日本の価値で自分の価値を定義しようする。
だから、オリンピックやワールドカップや「日本人の活躍」というものに熱狂することができる。
日本はすごい、日本人はすごいと言われると自分の価値も認められたような気がして嬉しくなる。
逆に日本の価値を貶められると、自分が馬鹿にされたような気がする。
あるいは「資産」という記号で自分を定義し、資産の価値で自分の価値を定義しようとする。だから株価の上げ下げに一喜一憂することができる。
株価が上がると、自分の価値も上がり、その分だけ人から認められるような気がして嬉しくなる。
逆に株価が下がると、その分だけ自分の価値を下がったような気がして不安になる。
だからこそ、私たちは自分を価値のある人間として定義してくれると思われる「レッテル」を手に入れようとネバギバの精神で頑張り、また自分が信じた「レッテル」の価値を高めるために多くを犠牲にする。
より価値のあるレッテルを求め、そのレッテルと自分の価値を同一化させ、その価値を高めるため、守るために自分の健康や身近な人との時間を犠牲にし、レッテルのために膨大な時間と労力お金をつぎ込む。
そして結局は、諸行無常の理によって、病気や倒産や定年や死に見舞われ、これまで自分を「価値のある人間」として定義してくれていたと思われるレッテルをことごとく失うことになる。
(自分が「自分のことを「価値のある人間」として定義してくれる」と信じたもののために)全ての犠牲にして、自分は何を得たのだろう、何が好転したのだろう、と我に返り、虚無に苛まれることになる。
整理しよう、私たちは自分を価値のある人間として定義しようとして何らかのレッテル・記号・象徴を求める。しかし、そのようなレッテル・記号・象徴は諸行無常の理によって必ず無に帰す。
諸行無常の理によって自分を自分として定義してくれていたものは必ず消え去り、自分は必ず何者でもない自分になる。
その時に、何者でもない自分に対して自分自身が寛容で、これはこれでええじゃんけ、と受け入れることができれば何の苦しみも生じないのだけれど、特定のレッテルに執着し、そのレッテルによって定義されている「価値のある自分」というイッメージに拘泥していると(執着しているからネバギバの精神で頑張っているわけだ)、何者でもない自分というものを到底受け入れることができず、必ず自己否定が生じ、それに伴い苦しみが生じる。
自分はどのようなレッテルで自分を「価値のある人間」として定義しようとして日々ネバギバの精神で頑張っているのか。
どうして今手に入れようとしているレッテル、必死に守ろうとしているレッテルのない自分を受け入れることができないのか。
そこには価値のない人間は見捨てられるという思考パッターンがあり、価値がない(と自分がみなした)他人を自分自身が見捨てる思想を持っているからこそ、自分も価値がないと(人からみなされると)人から見捨てられると思い込んでしまう。
だからどうにかして自分を「価値のある自分」として定義し、自分にはこんなに価値がある、こんなに価値のある自分は見捨てられるはずがない、と安心したいわけだ。
レッテル集め、それはそれでいいかもしれないが、それは一時的なまやかしに過ぎない。
そのレッテルの価値に裏切られ、多くの人が「価値のない自分」「何者でもない自分」に耐えきれず、発狂し、自己否定の最悪の形として自決していった。
自称最強のナチス軍や大日本帝国軍よりも、何者でもない自分を受け入れてヘラヘラしているニートのほうがよほど強靭なのかもしれない。
声出して切り替えていこう。