おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「満たされない者は、世界を手に入れても満たされることがない」

ローマの偉大な哲学者セネカは、こう言っている。

「満たされない者は、世界を手に入れても満たされることがない」

 忘れてはいけない。もしあなたがアメリカ全土を手に入れ、そこに囲いを作って大量の豚を飼ったとしても、あなたは一日に三食しか食べられず、一箇所でしか眠ることができないのだ。

D.カーネギー『道は開ける』

 

私たちは日々ものをかき集め、そのかき集めたものによって自分を「価値のある人間」として定義し、安心しようとすることに必死なのだけれど、それほどまでに苦労してかき集めたものを、んじゃあ実際に使っているのかというと、そのほとんどは使われていないのが現状なのではないかしらん。

 

(どうしてものをかき集めて安心感を得ようとするのかというと、そこには「価値のない人間は大事にされない」という思想があり、その思想は自分自身が「価値のない人は粗末に扱ってもいい」と思っているからこそ生じている。ものをかき集めれば、その市場価値の分だけ自分にも価値があるよう思えるし、人にもその市場価値分の価値をアッピールできると思えるし、そうして他人に「価値のある人間」ということを証明することができれば大事にしてもらえると思えて、安心できると思っている。しかし、実際にいくら市場価値の高いものをかき集めたところで人から大事にされているという実感を抱くことはなく、そうなるともっと市場価値の高いものをより多く手に入れれば、その分だけ自分の価値を証明することができ、そうして証明することができれば人から大事にしてもらえると思い、ひたすらに市場価値の高いものをたくさん手に入れようとし続けることになり、それが人生の目的のようになってくる。そして諸行無常の理によって、これまでかき集めてきた全てのものを手放すことになり、まじでぴえん、で人生が終幕する)

 

どうしてかき集めたものを使うことができないのかというと、私たち一人ひとりは絶対的に有限だからで、自分の時間や労力には必ず限界があるからだ。また肉体の大きさにも限界があるからだ。理由はそれだけでいたってシンプルだ。

 

ものを使うには、時間や労力が必ず必要になるし、私たちがものを使用する際に占める空間も至極限られている。つまり、私たちが実際に使うことができるものの量には限界がある。

 

身体的な制限を受け、物理的な制限を受ける、これが現実で、その現実に沿うとそれほど多くのものは必要ないということになる。よくよく現実を見ると、自分にはこれだけあれば十分なんだということがわかるはずなのだけれど、私たちにはそれがどうしてもわからない。

 

それはなぜかと言うと私たちは現実を生きておらず、自分は正しいという大前提の下、自分の思い込みの中で生きているからで、正しい自分の思い込みが自分にとっての「現実」となっていて、その「現実」はあくまでも思い込みなので物理的な限界はない。

 

その「現実」の中では、自分は一日に300食もの食事を食べることができると思えるし、100箇所で眠ることができると思ってしまう。1週間に200着の服を着ることができると思ってしまうし、何十年も前に着ていた服を今でも着ることができると思ってしまう。

 

どれだけものがあっても、その「現実」の中ではまだまだものが不足していると思えてしまう。

 

正しい自分の思い込みという「現実」がどのようなものなのかによって人生の幸福度は大きく異なってくると思う。

 

自分の「現実」が「足りない世界」、つまり何を手に入れてもまだ足りないとしか思えない心の状態と、「足りている世界」つまり自分には何がどれだけ必要なのかが明確になっていてそれらが楽勝で揃っているということが実感できている心の状態、これら二つの心の状態を比べた場合、後者の心の状態のほうが圧倒的に安心で平穏な日々を送ることができるのではないかしらん(前者の場合は、不安と恐怖と強迫観念に苛まれる日々を送ることになるのではないかしらん)。

 

「足りている世界」というのは実は目の前にすでにあるのだけれど、自分は正しいという前提による思い込みの「現実」に執着しているために私たちにはそれが見えない。

 

「足りている世界」を見るには、身の回りの使っていないものを捨てて、自分の思い込みでガチガチに固まった世界を崩していくしかない。

 

声出して切り替えていこう。