愛情のつもりで注いでいた過剰な思い入れは、誰の得にもならなかった。受け取る側のキャパを見越して適量を与えられないのなら、何もしないほうがましだ。
自分があれしてやりたい、これしてやりたいで頭いっぱいだったんだろ。家族にせよ教え子にせよ、先生の自己満足のための道具じゃないからね
一穂ミチ『スモールワールズ』
人に何かをしてあげた時、私たちは「おれはこんなことをしてあげたんだ」と得意顔になることがしばしばであるが、それがありがた迷惑になっている可能性もある、ということも想定したほうがいい。
自称「善意」が「ありがた迷惑」になる原因は、相手のことをきちんと見ていない、これに尽きる。
んじゃあ、相手の代わりに何を見ているのかというと、「善人の自分」というイッメージだ。
自分は優しくて思いやりのある善人だ、という自分に対する思い込みがあり、そのイッメージを強化したり、証明したり、確認するために何かを行っている。
自分はこんなに善人なんだ、自分はこんなに価値のある人間なんだ、ということをアッピールするために何かをやっているにすぎない。
相手のことが見えていない、自分のことしか見えていない。
善意の行いが成立するのは、相手が必要な時に、相手が必要なものを、相手が必要な分だけ与えた場合のみで、そうでなければ相手に「何もわかってもらえてない」という思いを抱かせてしまう。時によっては相手に寂しさを抱かせてしまう。
自分としてはそんなつもりはない、相手のためを思ってやったんだ、と思い込んでいるいるかも知れないが、結局、相手はそれを快く受け取れていない、相手のためになっていないのだから、迷惑でしかない。
思い込みと現実との間には厳然とした差がある。
だからちゃんと見る必要がある。
自分が「あの人はこういう人間だ」と思い込んでいる相手と本当の相手の間には必ず差がある。
自分が自分のフィルターを通して色づけして固定化して捉えている相手と、フィルターの外にいて、色づけされておらず、諸行無常の理によって揺らいでいる相手との間には必ず差がある。
だがしかーし、悲しいかな、私たちは「自分は絶対に正しい」という前提に立ち、自分が思い描いている相手像を間違いないものとして執着し、相手を見ようとしない。
(自分が思い描いている相手像と実際の相手が異なった場合、それは「自分は絶対に正しい」という大前提が崩れることになり、それはこれまでの人生において下してきた決断が間違っていたかもしれないということになり、それは自分の人生の根幹を揺るがすものであるため到底受け入れられず、「絶対に正しい自分」という思い込み、イッメージを無理矢理にでも維持するために、そんなはずはないとして必死に相手を否定するという暴挙に出ることすらある)
すべてを正確無比に捉えることは無理でも、ちゃんと相手を見ようとすることによって自分の思い込みの度合いを減らすことはできる。
相手が目の前にいるのに見えない、見ようとしないのは日頃から自分の身の回りのものを見ないからだ。
ちゃんと見るという習慣がなく、むしろちゃんと見ない習慣が身についているからだ。
その大きな原因として、持ち物が多い、ということがあげられる。
自分の注意力には限度がある。
そして持ち物が多いとその全てにちゃんと注意を向けることができなくなる。
もの多すぎると、どれがどれだかわからなくなり、自分にとって何が大事で何が大事ではないのかがわからなくなる。
逆に、ものが少ないと一つ一つにきちんと注意を払いやすくなる。ちゃんと見ることができやすくなる。
しかし、ただただ物を減らして自分の持ち物に注意を払わない状態だと、「おれはミニマリストだ」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のイッメージに囚われて、ものを減らしてそのイッメージを強化し、証明することが目的となり、自分が普段使っているものを捨てたり、人が使っているものをも捨てたりして、結局「ちゃんと見る」という習慣が身につかないままになってしまう。
ものを減らすことは、「おれはミニマリストなんだ」「おれはこんなにも価値のある人間なんだ」ということをアッピールするためではなく、ものをちゃんと見て、ものを大事にしやすくし、「ちゃんと見て、大事にする習慣」を身につけるための手段でしかない。
自分をちゃんと見て、自分を大事にする
自分の持ち物をちゃんと見て、持ち物を大事にする
相手をちゃんと見て、相手を大事にする
これらが息を吐くようにできるようになれば、人間関係も安定し、心身も安定し、家計も安定すること間違いないだろう。
声出して切り替えていこうと思う。