たしかにわたしは周囲の人々を敵だと見なしているのかもしれません。いつどこから攻撃の矢が飛んでくるか、恐ろしくてたまらない。いつも他者から監視され、厳しい評価にさらされ、攻撃されるのだと思っている。
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』
わたしたちは、とにかく人から責められないようにネバギバの精神で頑張ってしまう、人から攻撃されないように頑張ってしまう。
ミスをしたら責められるのではないか、攻撃されるのではないか、ミスをしていないかどうか監視されているのではないか、隙を見せたら厳しい評価をくだされるのではないか。
だがしかーし、周囲の誰が具体的にどのように思っているのかなどということは、その人が正直に話してくれないかぎり確かめようがない。
にも関わらず、どうして責められるかもしれない、監視されているかもしれない、攻撃されるかもしれない、酷評されるかもしれないという不安に駆られてしまうのか。
どうして実際に確かめられないものについて、あたかも断定されているかのように捉えてびくびくしてしまうのか。
それは自分が普段から他人のことを攻撃しているからで、他人の粗を見つけようと監視しているからで、粗を見つけた時には、その他人に厳しい評価を下し、攻撃しているからだ。
外見上はやっていなくても、心の中では息を吸うようにやっている。
他人を攻撃することがガチムチに癖になっているが故に、他人も同じようなことをしてくるだろうという発想にどうしてもなってしまうのであーる。
この時に見えたり想像したりする恐ろしい他人像は「自分の日頃の癖が作り出した幻想」に過ぎないということに気づくことができればいいのだけれど、なかなかそうはいかず、わたしたちはその幻想を現実にそうなんだぽよと決めつけてしまう。
自分が日頃から起こしている思いが、自分が感じる世界、すなわち自分の世界を生み出している。
周囲のことが恐ろしく感じるのであれば、自分が日頃から恐ろしい思いを起こしている。
誰かが攻撃してくるように感じることが多いのであれば、自分が日頃から誰かを攻撃している。
誰かが責めてくるように感じることが多いのであれば、自分が日頃から誰かを責めている。
世界が黒く見えるということは、自分は日頃から黒色の色眼鏡をかけている。
そして自分が抱えている不安や恐怖は自分が生み出しているにも関わらず、その原因を他人に求めてしまう。
あの人がいなくなれば私の苦しみは起きない。
あの人がいなければ(善良で清廉潔白な)私はこんな恐ろしい感情を抱かない。
全部あの人のせいでやんす。
そしてその原因と思われる人を監視したり、粗を探したり、酷評したり、攻撃したり、責めたりする。
そうするとますます他人から監視されているかもしれない、酷評されるかもしれない、攻撃されるかもしれない、責められるかもしれないという怖れが生じてくる。
ますます息苦しい世界ができあがる。
するとまたその息苦しさは他人に原因があるとし、その他人を攻撃し、さらに苦しい世界ができあがる。
自分の日頃の行い、習慣、すなわち「業」が苦しみを作っている、息苦しい世界を作っている。
ゴータマ・シッダールタ先輩の教えによるとこれを「自業苦」、すなわち「地獄」と呼ぶ。
地獄は死後に行くような、アメリカ大陸やオーストラリア大陸のような物理的な空間ではなく、日頃の思考パッターンによって作り出される心のあり方の一つだ。
苦しみの原因を他人に帰している人はすでに地獄にいる。地獄めぐりをしている。
大分の地獄めぐりであれば気持ちが良いかもしれないが(そういえばこの前関西に行った時にサウナに入りまくったが気持ちが良かったなー)、自分が作り出している苦しみを他人のせいにすることによって作り出される地獄は当然苦しいし、可能であれば巡らないほうがいい。
周囲の物事や人のことが悪く見えているということは、すでに苦しんでいるということだ。
周囲の物事や人が悪く見えるから苦しくなるのではなく、すでに自分が苦しんでいるから、周囲の物事や人のことが悪く見えてくる。
周囲の物事や人を悪く見て、それらを責め立てることによって苦しみを吐き出し、一瞬でも楽になりたいから、周囲の物事や人のことが悪く見える。
周囲の物事や人のことが悪く見えてきたら地獄の門が開いているということなのだから、どうしてそれが自分には悪く見えるのか、苦しく思うのか、不快に思うのか、その原因を安易に他人に求めるのではなく、サウナにでも行って、自分が日頃から起こしている思いを振り返る機会に変えていくといいのかもしれない。
声出して切り替えていこうと思う。