おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分ではないものに振り回されないようにモノを捨てる

精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。

 

人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。

 

ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』

 

私たちは「外的な条件」で自分を規定し、自分の存在価値を決めようとして、日々ネバギバの精神で頑張っている。

 

他人よりも少しでも自分が優位な存在になれるように必死になり、勝ち負けにこだわり、上下にこだわり、損得にこだわっている。

 

そして外的な条件が価値のあるものであれば、自分のことを価値がある人間とみなし、外的な条件が価値がないものであれば、自分のことを価値のない人間とみなす。

 

そして、価値のあるものは大事にし、価値のないものは粗末に扱ってしまう。

 

年収1,000万円には価値がある(と思っている)。

自分が年収1,000円だと、そういう自分は「価値がある人間」である(と思っている)。

「価値がある人間」は大事にしようと思う。

 

しかし、諸行無常の理によって、外的な条件というのは変転する。

例えば、諸行無常の理によって年収が1,000万円から200万円になったとする。

 

年収200万円には価値がない(と思っている)。

自分が年収200万円だと、そういう自分は「価値がない人間」である(と思っている)。

「価値がない人間」のことは大事にしようと思わない。

こんな人間はどうなってもいいと思う。

 

このように、年収が減っただけで自分のことを自分で見放してしまう。

 

外的な条件で自分の価値を定義しようとする心が強いと、諸行無常の理が支配する外的な条件に弄ばれる「たんなるモノ」になりはててしまう。

 

諸行無常の理の影響を必ず受ける外的な条件で、自分の価値を決めようとすることは、値動きの激しい仮想通貨の時価で自分の価値を決めて一喜一憂するようなものだ。

 

外的な条件に振り回されるだけ、弄ばれるだけ。

振り回されないように外的な条件を自分に都合のいいように固定しようと必死になるが、それは諸行無常の理によって必ず変転する、崩れる、離れていく、なくなっていく。

 

ナチス強制収容所における被収容者たちは、価値があると自分で信じていたもの、自分を「価値のある人間」として定義してくれていたものをすべて奪われた。

 

そういう「自分を価値のある人間として定義してくれていたと信じていた外的なもの」がなくなった今、自分にはもう価値がない、価値がない自分はもうどうなってもいい、そのような思考をたどり、あるものは堕落して「『典型的な』被収容者」に成り果て、ある者はこういう価値のない人間はいてはいけないと自己否定に走り高圧電流鉄線に身を投げた。

 

そしてある者は、外的な条件と自分をしかと切り分け、外的な条件は外的な条件、自分は自分とし、そして外的な条件がどのようなものであろうと、自分の価値を一定の高さで保ち、自分を大事にし続け、「人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守」り続けた。

 

私たちは外的なものと自分をつい結びつけてしまっている。

本来自分ではないものを自分であると思い込んでしまっている。

だからそのものに執着をし、自分を価値のある人間として定義してくれるだろうと思えるものをかき集め、手に入れたら握りしめて離そうとしない。

そして失ったら不安になる、あるいは怒りが起こる、自己否定が起こる。

 

外的なものと自分をなるべく結びつけないようにするためには、「使っていないものを捨てること」を習慣にする必要がある。

 

使っていないものを捨てていくと、持ち物の量と自分の存在は関係ないことがわかってくる。

 

そして手元に残った使っているものを大事にしていく。

するとどんなに大事にしていても、いずれは壊れ、使えなくなり、手放さなければならないということがわかる。

 

そうして日々大事に使っていたものを、使えなくなった時点で手放したり、入れ替えたりすると、もの=外的な条件はどんどんと変わる一方で、自分という存在は一定に存在しているということがわかってくる。

 

なるほど。

 

使っていないものは手放していこう。