おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

何かを欲しいと思った時に想像していること

消費者の側に欲しい物があって、それを生産者が供給するなどというのはまったくの事実誤認である。

 たとえば数年前まで問題なく使っていたパソコンとそのソフト。なぜそれをいまも使うことができないのか? ソフト会社が「こんどのバージョンにはこんな機能がついてますよ」「すばらしいでしょ」「欲しいでしょ」と言っているにすぎない。利用者の欲望を作り出しているにすぎない。

 ガルブレイスが言うように、現代社会の生産過程は、「生産によって充足されるべき欲望をつくり出す」。そして新しいソフトには高機能のパソコンが必要になる。そうしてまだまだ使えるパソコンが毎日、山のように捨てられる。この構造はほとんどの産業に見出される。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

私たちは何かを買う時、それを本当に欲しいと思って買っているのかというと実はそうではない。

 

「こういうものが欲しいぽよ」と思い描いた上で、自ら探しに行き、買っているわけではなく、商品を見せられて、欲しいと思わされて買っているということが多い。

 

その商品を見せられることによって欲しいと思わされるということは、私たちの中にその商品から発されるメッセージなりイッメージに共鳴するようなものがあるということでもある。

 

基本的にほとんどの商品から発されるメッセージなりイッメージというのは「この商品はすごいですよ、素晴らしいですよ、希少ですよ」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気なのだけれど、結局のところ「これを手に入れたら不特定多数の人間から価値のある人間だと思われますよ」ということに尽きる。

 

そして私たちがそのメッセージなりイッメージに共鳴して「これが欲しい」と思ってしまうということは、私たちの中に「他人から価値のある人間としてみられたい」という強い欲望があるということになる。

 

まだまだ楽勝で使えるアイフォーンがあるにも関わらず、最新のアイフォーンが発売されると買い替えてしまうのは、不特定多数の人間から価値があるとみなされている最新のアイフォーンを手にれることによって、人から価値のある人間として見てもらえる、ということを想像し、そして、人から価値のある人間として見てもらえることの中に自分の幸福はあると思っているからだ。

 

他人から注目されている自分、褒められている自分、有能だと思われている自分、おもしろいと思われている自分、知的だと思われている自分、金持ちだと思われている自分、一目置かれている自分。

 

私たちはそれを手に入れることによって他人から「価値のある人間」として見てもらえそうなものをつい欲しくなってしまう。

 

確かに、例えば最新のアイフォーンを手に入れると、最新のアイフォーンを手に入れた自分に注目してくれる人はいるかもしれないが、その種の注目はほんの一時的なものでしかない。

 

おそらくその注目は1回目だけで、最新のアイフォーンを持っているからといって2回目以降も逐一注目してくれることはない。

 

価値のあるものを手に入れる、持っている、ただそれだけでは自分は変わらないし、ただそれだけで人から大事にされることはない。

 

変わったと思えるのは一瞬だけで、注目された、大事にされたと思えるのも一瞬だけで、その瞬間が過ぎれば、最新のアイフォーンを手に入れる前の自分の心境に戻る、最新のアイフォーンを手に入れる前の人間関係に戻る、いつもの日常に戻る。

 

そしてそのいつもの日常が嫌だから非日常を求めて他人から「価値のある人間」として見てもらえそうなものを再び手に入れようとする。

 

いつもの日常を整えない限り、そしてどうして自分はこうまでして人から「価値のある人間」として見てもらいたいのかしらんと考えていかない限り、これの繰り返しや。

 

声出して切り替えていこうと思う。