おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

姪っ子と遊んで学んだこと

ここ数日は実家に戻り、姪っ子たちと朝から晩まで遊び散らしていたのだけれど、とてもいい時間を過ごすことができた。

 

子供を見ていると、面白い。

 

子供は事あるごとに、私はこんなことができる、あんなことができる、私のほうが早い、私のほうが強い、私のほうが面白い、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、とにかく私に競争なり勝負を仕掛けてきて「私はこんなに価値があるんだ」ということをアッピールしてくる。

 

それが子供なりの存在証明なのだろう。

 

そして、テレビの中の別の子を見て褒めていると、「あちしもできるぽよ」とか「あんなの簡単ぽよ」と人に対抗しようとするし、なかなか人の価値を認めようとしない。

 

もちろん子供なので、こちらとしても「お、すごい、できるねー」とか「〇〇もできるもんねー」といった声をかける。

 

すると、喜ぶ。

 

例えば、カルタを一緒にやって、私が何枚か連続でとり始めると、姪っ子は不機嫌になる、そして姪っ子が連続でとり始めると上機嫌になる。

 

カルタに勝つと姪っ子がとても喜ぶのは言うまでもない(まぁ、私が本気で挑んでも4歳の姪っ子にガチのムチで勝てないのだけれど)。

 

姪っ子のような心境は子供の頃の私にもあったし、誰にでもあったのではないかしらん。

 

姪っ子がカルタに勝とうが負けようが、カルタが得意であろうが苦手であろうが、そのようなものとは関係なく、私にとっての姪っ子の大切さというのは一定の高さのままなのだけれど、おそらく姪っ子としては、負けたり苦手だったりして自分の価値を証明できなかったら何か悪いこと(例えば誰にも相手にしてもらえないようなこと)が起こるような気がするのだろう。

 

このような思考パッターンはなにも4歳児特有のものではなく、私たち大人にも楽勝で散見される。

 

大人の場合は、姪っ子にとっての「カルタ」や「かけっこ」や「持っているおもちゃ」が「資産額」や「職業」や「地位」や「名声」や「権力」や「能力」や「美貌」や「知性」などになっただけだ。

 

姪っ子も私たち自称大人も、自分の価値を証明すれば人から大事にしてもらえる、と思っている。

逆に、「自分の価値を証明してくれるもの」がなければ人から大事にされない、と思っている。

 

だから、姪っ子も私たち自称大人も「自分の価値を証明してくれるもの」に執着して、それらをかき集めては握りしめ、ことあるごとに「価値のある自分」をアッピールする。

 

姪っ子には「カルタ」や「かけっこ」や「持っているおもちゃ」といった不特定多数の人間にとってわかりやすい価値とは関係なく自分のことを大事にしてくれる存在がいるということに気づいてもらえたら幸いだ。

 

そのことに気が付くことができたら、世間的な価値と自分の価値を切り離して平穏な暮らしを送りやすくなるだろう。

 

大人になって強迫的に「資産額」や「職業」や「地位」や「名声」や「権力」や「能力」や「美貌」や「知性」を追い求め、「自分の価値を証明してくれるもの」をかき集めることに自分の時間と労力とお金を費やし続けることから離れやすくなるだろう。

 

子供たちと遊びまくることによって、色々と学ぶことができた。

 

声出して切り替えていこうと思う。