後知恵バイアスというのは、その結果を知ったから判断しているのに、あたかもその結果を知る前から予測していたように考えてしまう心理状況です。
安達裕哉『頭のいい人が話す前に考えていること』
政治や社会について発言するのは簡単なのだ。いまの政治や社会は日本でも世界でも、どこからつついても間違っているのだから、発言者はほとんど自動的に自分の正しさを疑わずに喋ってしまうことができる。しかし、そんな発言には実効性は何もない。実効性が何もないというのは責任が何もないということであって、そのような地点からいくらしゃべっても自分の安全はいっさい侵されない。
結末から逆算して考えてはいけない。結末というのは悲劇の当事者にとっていかにも動かしがたいことのように見えてしまうのだが、そこにいたる過程では(つまり、過去形でなく現在進行形だったあいだは)結末は、いくつもの可能性のひとつにすぎなかったはずではなかったか。
結末はいくつかある可能性の中のひとつでしかなく、その中の最もいい可能性を得たいから努力したはずなのに。
保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』
私はニュースの類はほとんど見ないのだけれど、そのように暮らしていても、新年早々の地震と飛行機の衝突事故の話などの特大ニュースは周囲の人たちから自然と耳に入ってくる(それくらいがちょうどいい)。
このような大きなニュースの後に必ずといっていいほど起こるのが、以下のような論調だろう。
なんでああしたんだ。
なんでこうしなかったんだ。
そうして、自分はあたかも正しい判断ができる自分として安全な立場から特定の人を責め立てる。
それは「後知恵バイアス」というもので、すでに起きてしまった結果からだといくらでも好きなことが言えるし、正論が組み立てやすい。正論を言うのはいいとして、それが「後知恵バイアス」であるということには自覚的である必要があるのかもしれない。
自分はこう発言しているし、こう思っているいるのだけれど、これは所詮は結果論であり、んじゃあ、仮に自分自身が現在進行系のその渦中にいたとして、自分は自分が今責めている人たちと一線を画した自称「正しい」判断なり行動なりが本当にできたのかしらん、と一度立ち止まって考える必要がある。
相手がその時に目にした刻々と変化する景色と同じ景色を自分も目の当たりにした時に、果たして自分は自称「正しい」判断なり行動が本当にできたのかしらんと反省してみる必要がある。
冷静に考えれば、渦中にいる時の風景と、結果からの風景は見え方が全く異なることがわかるのでないかしらん。その2つの風景が異なるのだから、一方の風景から導き出された結論によって、もう一方の風景から導き出された結論をこてんぱんにフルボッコにするのはどうなのかしらん。
そもそもどうして私たちは他人を責め立てて自分の「正しさ」や「賢さ」や「善良さ」をアッピールしたがるのかしらん。あるいはどうして私たちは他人を責め立てて「正しい自分」や「賢い自分」や「善良な自分」というものを感じようとするのかしらん。
(大きなニュースやスキャンダルというのは、結果論から正論を述べて「正しくて賢くて善良な自分」というものを感じることができるため、「正しさ」や「賢さ」や「善良さ」に執着している私たちにとっては、うってつけのとっかかりなのであーる。)
あるいはどうして私たちは「間違い」や「愚かさ」や「邪悪さ」とみなしたものに対してこうまで拒否反応を示すのかしらん。あるいはどうして私たちは「間違ってしまう自分」や「愚かな自分」や「邪悪な自分」というのものを見ないようにしたり、なかったことにしようとしたりするのかしらん(そのような自称醜悪な側面は確実に自分の中にあるというのに)。
それは寂しいからだろう。
こんなに正しい私がここにいるぽよ、こんなに賢い私がここにいるぽよ、こんなに善良な私がここにいるぽよ、こんなに価値のある私がここにいるぽよ。
私はこんなに価値のある人間なのだから、そんな私の存在に気づいて欲しい、私の存在を認めて欲しい、私の存在を大事にして欲しい、と大なり小なり何らかの形で訴えたいのだろう。
自分の価値を不特定多数の人に認めさせて人から大事にされたい、という思いがあるからだろう。
結論から逆算して正論をがなり立てている人を見た場合は、この人も私と同じで自分の価値をアッピールして人から大事にされたがっているんだなー、おいどんと仲間だなー、世はまさに大海賊時代だなー、と受け止めて、相手を大事にしていこうと思う。
声出して切り替えていこうと思う。