おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

モノサシさえ捻じ曲げる

評価するべきものを評価する。

評価するべきでないものを評価しない。

 

企業理念に近づくことは、よい

企業理念から遠ざかることは、ダメ

 

安藤広大『とにかく仕組み化』

 

組織におけるモノサシは「企業理念」であり、その企業理念というものはテンプレ式に作ることはできない。企業理念は、組織のトップが組織を通じて世間におけるどのような課題を解決したいのか、つまり「社会に対して果たすべき目的」をネバギバの精神で捻り出し、言語化し、共有するしかない。

 

そうして掲げられた「企業理念」がモノサシとなり、ある事柄について判断する際にそれは企業理念に適うからOK、それは義業理念に適わないからNG、と判断することができる。

 

あるいは人事評価をする際も、まずは何を評価し、何を評価しないのか、それらに関するモノサシがあり、そのモノサシに基づいて評価するべきものを評価し、評価するべきものでないものを評価しない。

 

モノサシを準備し、そのモノサシに沿って物事の判断を行なう。

とてもシンプルだ。

 

これは組織制度の話なのかもしれないのだけれど、んじゃあ、日常生活において当てはめるとどうなるのかしらん。

 

まず私たちは日常生活の何らかの物事を判断するために、明確なモノサシを持っていないことが多い。モノサシを持っていないので、その場しのぎの判断しかできないことが多い。

 

あるいは持っている場合、それはどのようなモノサシだろうか。

 

モノサシはどのようなモノサシでもいい。

 

そしてここからが問題なのだけれど、わたしたちは自分で定めたモノサシを自分の都合によって歪めてしまい、全てを正当化してしまう。

 

例えば、私のモノサシが以下のものだったとする。

 

「人に寛容であることは善、人に冷淡であることは悪」

 

そして私は自分のモノサシに従って、人に寛容であろうとネバギバの精神で頑張るわけなのだけれど、人に寛容であろうとすればするほど、その過程においてそれがどうしてもできない自分が見えてくる。むしろ冷淡な思いを起こしている自分が見てくる。

 

そして私は自分が悪になりたくないので、ここでモノサシを捻じ曲げる。

 

「ああいう人間に対しては冷淡な思いを起こしてもいい」

 

このようにモノサシを捻じ曲げた瞬間、私が起こしている冷淡な思いは正しいものになってしまう。

 

私たちはきれいな自分、善良な自分、できる自分、有能な自分、といった自分にとって都合のいい側面の自分しか見たくないと思っているために、そもそも明確なモノサシを持とうとしない。(明確なモノサシがあると、醜い自分、悪の自分、できない自分、無能な自分、といった自分にとって都合の悪い自分の側面が見えやすくなってしまうからな)

 

たとえモノサシを持っていたとしても、都合の悪い自分を見たくないが故に、常にモノサシを歪めて都合の悪い自分を都合良く見ようとしてしまう。

 

んじゃあ、どうして私たちは自分にとって都合の悪い自分をこれほどまでに見たくない、受け入れたくないと思ってしまうのか、言い換えるとどうしてそれほどまでにきれいな自分、正しい自分、善良な自分、有能な自分という自分にとって都合の良い自分に執着してしまうのか。

 

それは善良な人間でなければ、優秀な人間でなければこの世にいてはいけない、醜悪な人間は価値がなく、この世にいてはいけないと思っているからで、そう思っているからこそ、自分の醜悪な部分を受け入れ切れず、自分の醜悪な部分を人に見せたり打ち明けたりしたら人は自分を見捨てて離れて行ってしまうと恐怖しているからだ。

 

都合の悪い自分を見たくないから、モノサシを持てない。

都合の悪い自分をみたくないから、モノサシを捻じ曲げる。

 

つまり、醜悪な自分への拒否感が薄まらないかぎり、モノサシは機能しないということになるのかもしれない。

 

どんなに見ようとしなくても、都合の悪い自分の側面というのは厳然と自分の中にある。あるものはあるのだから、早めに受け入れていくしかない。醜悪な自分が見えた時に、その部分を責めて攻撃して消し去ろうとしても、その部分は消えない。逆に苦しいだけだ。自分は純度100%の善良な人間ではないということ、自分には醜悪な側面が多分にあるということを淡々と受け入れていくしかないということや。

 

声出して切り替えていこうと思う。