そういえば2023年に読んでよかったなーと思えた本は以下の5冊。
(とはいっても、2023年に読んだ本はどれもよくて、その都度良い時間を過ごすことができた)
1 保坂和志『人生を感じる時間』
2 保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』
3 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』
4 ヌッチョ・オルディネ『無用の効用』
5 二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』
1〜3は数年前に読んで、実家から持ってきて、2023年に再読したもの。
4と5は、2023年に初めて手に取り、読み終わった後、すぐに再読したもの。
いずれにせよどれも再読した本だ。
私は本を読む際は、気に入ったところや気になるところなどに付箋を付けながら読んでいて、さらに付箋を付けたところをGoogleドキュメントに書き写している(そして書き写し終えた後は本を手放している)。
よって、上記の本について、軽く振り返ってみようかしらん。
1 保坂和志『人生を感じる時間』
希望や可能性がその人を苦しめるのだ。
辛辣なことを言ってしまえば、希望や可能性を頼りにしなければならないという思考の単純さがその人自身を苦しめるのだが、いまはそれは置いておこう。「これをしたい」という希望や、「私にはこういうこともできる」という可能性は、自分自身の現在の状況の否定が裏にある。いまの状況に満足していたら、それ以上を希望する必要はないし、別の可能性を考える必要もないはずではないか。
私の小説の登場人物たちは、進歩したいとか変化したいとか思っている気配がない。ただ自分がここにいて、しゃべる相手もここにいる、それでじゅうぶんじゃないかと思っている。「それでじゅうぶんじゃないか」と思えるということは、いまここにいる自分と相手を肯定することだ。
2 保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』
文学の原典、つまり小説や詩や戯曲の中にこそ人間の理解しがたさが書かれている。書かれているのが狂気や犯罪だったらある意味で読者は安心したり納得したりすることができるだろう。「この人は私とは根本的に違う」とか「この人は特殊だ」とか括ってしまうことができる。しかし、ふつうの人の中にも他の人と共有しがたい、硬い石のようなものが宿っている。
そのような人間の広がりや奥深さや不可解さが書かれているのが文学であって、それを読むことによって単純には類型化できない人間の多様性が読者の心に蓄積される。「ふつうの人」という人間はこの世界にはいないのだ。
文学に接していない人とつき合ってみると何度目かに(場合によっては一回目に)薄っぺらさに気づく。もちろんその薄っぺらさに本人は気づいていない。重々しく見せたり人間的な深みを見せたりしようとするところが一層薄っぺらさを強調することなどその人にわかりようもない。
彼ら彼女らは相手の言うことをゆっくり聞くことができないし、それゆえ観察することもできない。そのくせすぐに結論を出したがる。つまり”溜め”がない、というか”溜め”を知らない。文学の価値がわかるには時間がかかる。しかし今の社会は時間がかかることをただの「非効率」と切り捨てる。必然的に文学の価値を知る人が育たない。
浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。
浪費はどこかでストップするのだった。物の受け取りには限界があるから。しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費は決して満足をもたらさない。
なぜか?
消費の対象が物ではないからである。
人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。
消費者が受け取っているのは、食物という物ではない。その店から付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。
4 ヌッチョ・オルディネ『無用の効用』
「もつこと」を「在ること」よりも上に置く考え方、「どう在るか」より「なにをもつか」を重視する発想は、より洗練された形に進化して、いまも社会のあちこちに根を張っている。
人の目に「どう映るか」が、「どう在るか」よりも大切にされる。見せびらかすことのできるもの――高級車やブランド時計、有名企業の肩書きや権威ある地位――は、文化や教育水準よりもはるかに高い価値があると思われている。
「どう在るか」は「なにをもつか」よりも大切だ
5 二村ヒトシ『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』
「インチキ自己肯定」をしている男ほど、他人を「支配」したがるんです。
自信満々で他人を支配しようとしている人を見たら「この人は、本当は自己受容できていないんだな〜」と思って、間違いないでしょう。
そういう人は相手のことを支配できなくなると、今度は相手のことを徹底的に否定し始めます。他人を否定するということは「自分を受け入れていない」証拠です。
愛するということは「欲しがること」ではなくて、自分や相手の心の穴を「見ることです」
「見る」とは、正しいか正しくないか、よいか悪いかの判断をせずに、おたがいの心の穴を認めて、受容することです。目の前にあるものを大事にするということです。
100%自己受容できてない自分のことも「許す」のがコツだと思うんですよ。
実際にGoogleドキュメントを通じて上記の本に係る付箋リストを一通り振り返ってみたのだけれど、それぞれについて改めて震撼した。
上記に引用した箇所は、無論、それぞれの本のごくごく一部でしかないし、前後の文脈もないため、ピンとこないところもあるかもしれないのだけれど、このような情報や視点や考えはやはり本を通じてではないと得られ難い。
これは脳への独特の刺激であり快楽であり、やめられそうにない。そして自分が気になった箇所一つ一つについて書きながら考えていくと更に面白い。
たくさんの本を読むこともいいかもしれないけれど、読んだ本を通じて自分の考えを刷新していく、深めていく(そして、考える時には書きながらの方が考えが深まりやすかったり定着しやすかったりする)、あるいは日常生活の中に落とし込み実践していくことのほうがより有意義な気がするため、2024年もこんな感じのニュアンス的な雰囲気で本と付き合っていきたい。