おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分勝手な思い込みの中で生きている私たち

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先日、凪良ゆうさんの『流浪の月』を読んだ。

その中に次のような一節があった。

 

「事実なんてどこにもない。みんな自分の好き勝手に解釈しているだけでしょう。」

 

私たちは「私は正しい」という大前提で生きている。そして自分なりの正しさに基づいて、物事を捉え、解釈し、判断し、行動している。

 

小説の中の主人公は、周囲の人間の勝手な解釈に基づく言動に苦しんでいた。ああだこうだと決めつけられ、主人公の本心の言葉さえ勝手に解釈されていた。

 

周囲の人間に悪意はない。これは自分の勝手な解釈にすぎない、自分にとって都合の良い思い込みに過ぎない、間違っているかもしれないという自覚なく、こうに違いない、これはこういうものだ、こうじゃないとおかしいとして、自分の思い込みを絶対的なものとして自然と人に押し付けていた。

 

すべての人間らしく「私は正しい」とばちばちに信じ込んでいた。

 

自分にも自分なりの解釈があるように、人にも人なりの解釈がある。

だけど、自分の解釈しか眼中になく、その人の解釈に耳を傾けない。自分の正しさのことしか頭にない。自分の正しさとは異なる他人の言葉を耳にした時は、常識(不特定多数の者による解釈)や専門的知見(専門家による解釈)をもってしてその人の解釈を否定する。

 

私にはそれが白に見える。世間の人間にもそれが白に見える。専門家にもそれが白に見える。Aさんにはそれが黒に見える。

 

以上をもって、Aさんを間違っているものとして否定していいのか。不特定多数の人に白に見えているからといって、果たしてそれは本当に白なのか。それが白なのか黒なのかあるいはそれ以外の色なのかを証明しようと血眼で相手を否定してあっても仕方がない。私にはそれが白に見える、Aさんにはそれが黒に見える、それが事実、それだけでいいじゃんけ。

 

私にはそれが白に見えるんだけど、Aさんには黒に見えるんだー、ほーん、おもろいなー、でええじゃないか。

 

「私は正しい」のであれば、物事は「正しい私」の思い通りに進むはずだ。

だがしかーし、日々の生活の中で思い通りにならないことはたくさんある。

 

例えば先日、久しぶりに友人たちと酒を飲み交わした際、私は酒を飲みすぎて次の日二日酔いになっちまった。ビール2杯とトマトハイ2杯で自分なりにかなり抑えたつもりだったけれど、翌日の大半をグロッキーな状態で棒に振ってしまった。

 

このように、こんなはずじゃなかったぽよ、という出来事は日常的に起こっている。私が正しければ想定外のことは起こらない。だけど実際に想定外のことはたくさん起こる。そこには自分の思い込みと現実との間に確実にズレがある。つまり、私たちは現実を正しくありのままに認識することはできない。

 

「こんなはずじゃなかったぽよ」という出来事は「私は正しい」という自惚れを薄めてくれる。思い通りにならないことが起こっているということは「私は正しい」という前提から「私は間違っているかもしれない」という前提へ切り替えられる好機なのだ。

 

とは言え私たちは「私は間違っているかもしれない」という前提へはそう簡単には切り替えられない。

 

私たち人間には物事を二つに分け、一方を盲目的に崇拝し、もう一方を冷酷なまでに否定する性質がある。上記の文脈では、私たちは「自分は正しい」という大前提に立ち、自分が正しいと思う人のことは全力で持ち上げて擁護し、自分が間違っていると思う人のことは徹底的に責めて、傷つけ、見下し、馬鹿し否定する。「私は正しい人間だ」ということをアッピールするために都合の悪い人間を否定して生きている。

 

そんな私たちが「私は間違っているかもしれない」という前提に立ったらどうなるか。それは自分がこれまで他人を否定してきた分、次は自分が他人から否定されるような気がして恐ろしくなる。

 

だけど、それはそれで思い込みに過ぎない。他人が自分を否定してくるように感じるかもしれないが、その他人が本当に自分を責めようとしているのかはわからない。だけど、単なる自分勝手な解釈や思い込みを実際の現実だと強く信じてきた分、そのことには気が付きにくい。相手が責めてきているように感じるから、(それは単にそう感じているだけで実際のところはわからないのに)相手は責めてきていると断定してしまう。

 

こうなるといつまで経っても「自分は正しい」という前提を崩すことはできないし、自分の思い込みの中で人や物事をこうだと決めつけ、それが他人を傷つけ、自分を傷つけてしまう。

 

私たちは仏や菩薩にでもならない限り、自分の思い込みや解釈の中で生きるしかない。まずは、所詮は自分の思い込みや解釈なんだと自覚する必要があるし、それを無理なく自覚していくためには日常生活における想定外のことを大事にしていく必要がある。想定外の現実を通じて、自分の思い込みを相対化し、浮き彫りにすることができるからな。

 

思い通りにならないことが起こる度毎に、自分がどういう思い込みをしていたのかを分析し、やっぱりおいどんは思い込みの世界に生きていたなー、思い込みと現実はどうしても違ってくるものどすなー、自分にとって現実はわからないものどすなーと京風に反省していくしかないどすなー。

 

以上です。