おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「動くことは損」という奴隷的な発想

「主人」と「奴隷」というラベルはまったくあべこべに逆転するべきものである。一組のペアが安定したパターンに落ち着いたときにはいつでも、「主人」すなわち「搾取する」役割を演じることになったブタは、ほかのすべての点で劣位の個体であった。いわゆる「奴隷」ブタ、あらゆる仕事をしたブタは、ふつう優位の個体だった。

 

「もし優位なら餌桶のそばに座れ、もし劣位ならレバーを押せ」という戦略は賢明なものに響くが、安定ではないだろう。劣位のブタはレバーを押したあと全速力で走ってきて、前脚をしっかりと桶に入れた優位のブタを見つけるだけのことで、追い立てることはできない。劣位のブタはすぐにレバーを押すことをあきらめるだろう。なぜなら、その習性はなんの報酬ももたらさないからである。しかしここで逆の戦略、「もし優位ならレバーを押せ、もし劣位なら餌桶のそばに座れ」を考えてみよう。これは、たとえ劣位のブタが食べ物のほとんどを得るという逆説的な結果さえ生じるとしても、安定であろう。必要なのは、優位なブタが豚箱の一方の端から突進してきたときにいくらかの食べ物が残されていなければならないということだけである。優位のブタは到着するやいなや、劣位のブタを桶から追い出すのになんの苦労もない。

 

リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子

 

文脈を説明しよう。

 

ある部屋に2頭のブタが入れられていて、部屋にはボタンが1つある。そのボタンを押せば、反対側の壁から餌桶に餌が供給される。

 

このような環境においては、一頭はボタンを押し、もう一頭は餌桶の前に陣取るという構図ができあがるらしいのだけれど、私たちはボタンを押すために動くブタを「奴隷」として見てしまい、餌桶の前に陣取っているブタを「主人」として見てしまう。

 

動くものは奴隷で劣位にある。

動かないものは主人で優位にある。

 

これが私たちの通常の思考パッターンなのだけれど、実はこれは遺伝子学的には間違っているかもしれないというのがおもしろい。

 

劣位のブタがボタンを押し、優位のボタンがエサを独占するとなると、劣位のブタは優位のブタを押しのけることができないため、延々とエサにありつけず、ボタンを押すという行為に価値を見出せない。よって劣位のブタはぴえんとなり、次第にボタンを押すという行動をやめる。

 

そうなるとボタンを押すものはいなくなり、優位のブタが動かない限り、両者は飢えてしまうということになる。これは不安定な関係と言える。

 

逆に優位なブタがボタンを押し、劣位のブタがエサの排出口に陣取るという構図の場合、優位なブタはエサが出始めると劣位なブタを追い払いエサにありつくことができる。そして、劣位のブタも優位なブタに追い払われるまでエサにありつくことができる。つまり両者ともにエサにありつけるというメリットを享受することができるという点でこの関係は安定している。

 

つまり安定した関係においては、以下のようになるのかもしれない。

 

動くものこそ主人であり優位にある。

動かないものこそ奴隷であり劣位にある。

 

私たちはいかに自分は動かず済むか、いかに人を動かして、左団扇で人を見下す立場になるかを夢見ている。自分が動くことは損だとさえ思っている。

 

私たちは自分は動くことなく、人に動いてもらう立場にあるほうが主人であり優位であると思い込んでいるが、果たしてそれは本当にそうなのだろうか(まぁ、そもそもどちらが上とか下とかはどうでもいいのだけれど)。

 

動かない人(上の文脈でいうと劣位な人)は、動く人(上の文脈でいうと優位な人)がいなければ、利益にありつけない。

 

動かない人は動く人がいなければ困るけれど、動く人は動かない人がいなくても困らない。

 

となると、自分が動くことが損だと思っている人、自分や人のために気軽に動くことができない人は、誰かに動いてもらわなければどうしようもないような状況を志向して生きているということになる。自分にとって不安定な世界を作ろうとして生きているということになる。

 

逆に、自分が動くことは損でもなんでもない、むしろ自分を糧になると思っている人は、自分や人のために気軽に動くことができるために、自分で自分自身や周囲の環境を整えることができる状況を志向して生きているということになる。自分にとって安定的な世界を作ろうとして生きているということになる。

 

私たちはブタよりもケチくさいので、自分が動いた結果、動いていないブタがエサの8割を食べ尽くし、追い払った後の2割のエサにしかありつけなかったら、自分と他人を比べて動くことをやめてしまうのがほとんどなのだろう。

 

しかし、ブタは相手が自分よりエサをどれだけとったとかとっていないとかは気にしない。自分が動いて、自分に必要なエサを得られるかどうか、ただそれだけが問題で、エサを得られるのであればそのための行動を行なう。得られないのであればやめる。なおかつ、動けるブタこそ優位な個体であるし、劣位なブタはそれをわきまえているのかもしれない(劣位なブタのほうがたくさんのエサにありつけているかもしれないが)。

 

自分の行動が自分の利益になるのであれば動けばいいし、何の利益にもならなければ動く必要はない。そしてその利益というのはお金のことだけではなく、心身の健康や清潔な住居環境やバランスの取れた家計や良好な人間関係のことで、それらは確実に自分を整える。自分や身近な人を整えるために気軽に動けるということは、自分や身近な人を大事に思っている証左でもあるため、動けることそのものが利益だったりもする。

 

なんかうまくまとまらなくなってきたが、「動くことは損」という発想のもとに動けない自分になってしまうと、エサ桶の前でビクビクしながらエサを待つ劣位なブタと同じになってしまう。まぁ、それはそれでいいのかもしれないけれど。



声出して切り替えていこう。