おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

大事にする方向性で

幸福と祝福は、財産がたくさんあるとか、地位が高いとか、何か権勢だの権力だのがあるとか、こんなことに属するのではなくて、悩みのないこと、感情の穏やかなこと、自然にかなった限度を定める霊魂の状態、こうしたことに属するのである。

(出隆、岩崎允胤訳『エピクロス――教説と手紙』)

 

たくさんの財産、高い地位、強大な権勢や権力、わたしたちはそのようなものを手に入れれば幸福になると思っている。つまり、それらを手に入れて優越感を得ることが幸福だと思っている。

 

実際に財産や地位や権力というのは手に入りにくいので、それらを手に入れることができない人は、あいつは間違っている、私は正しい、あいつはわかっていない、私はわかっている、あいつはできない、わたしはできる、と自分なりの正義を根拠として他人を馬鹿にしたり見下すことで優越感を感じようとする。

 

つまり私たちは優越感に対して飢餓状態にあり、優越感を得ることができれば心は安定すると思っているのだけれど、優越感というのはある種のドラッグのようなもので、手に入れて「もう大丈夫ぽよ」と思ったら、それは一瞬の快楽に過ぎず、次はさらなる飢餓状態に陥ってしまう。それはもう誰もが経験していると思う。

 

そういう意味で、エピクロス先輩は優越感を求める生き方に幸福と祝福はないと言っているだろう。きりがないし、結局は苦しみに転化してしまうからな。これにはゴータマ・シッダールタ先輩も同意するはずだ。

 

私たちの時間と労力とお金のほとんどは優越感を得ようとすることに費やされているのだから、優越感を求めることから離れることができれば、時間と労力とお金に余裕ができやすくなるし、何よりも心がすんげぇ楽になる。優越感を求めなくなると、上下を問題にすることがなくなり、自分が相手より上なのか下なのかどうでもよくなる。上とか下とかは自分の幸福とは無関係であると実感するようになる。すると悩みは格段に減るし、感情は穏やかになる。

 

よし、ここで自分が優越感を得るため、他人を見下すため、他人を馬鹿にするため、他人から賞讃されるためにネバギバの精神で頑張っていること、ネバギバの精神でかき集めているものを書き出してみよう。優越感を得るために頑張らないといけないと思っているもの、かき集めないといけないと思っているものを書き出してみよう。やってみよう。

 

それは蓄財かもしれない、仕事かもしれない、作品かもしれない、筋トレかもしれない、読書かもしれない、婚活かもしれない、勉強かもしれない、ブログかもしれない、家具かもしれない、写真かもしれない、旅行かもしれない。

 

何かのモチベーションが優越感を得ること、他人を見下すことであるならば、それは不毛だし、これをやらないと見下される、馬鹿にされるという強迫観念で苦しくなる。その強迫観念が自分自身にムチを打ち、自分を無理矢理動かすようなことをしてしまう。しかし、その強迫観念は自分自身が他人を見下そう、馬鹿にしようと思っているからこそ生じている。

 

何かの活動において優越感を求めていることに気がついたら、優越感のための分を削ぎ落としてみるといい。

 

例えば、腕立て伏せ。

 

自分にとって、1日10回の腕立て伏せが体を整えるために必要だとする。

しかしながら、腕立て伏せを1日100回するということは、残りの90回は筋肉をかき集めて優越感を得るための活動だ。だからその90回はやめる。

 

例えば、腕時計。

 

自分にとって、時間を正確に刻むお気に入りの腕時計1本あれば、オンオフともに問題ないとする。

しかしながら、時計を60本持つということは、その59本分はきちんと使うための時計ではなく「おれはこんなに良い時計をこんなに持っているぽよ」という優越感のための時計であるし、出費についても、優越感のための出費と言えるので、その分は控える。

 

自分を大事にするための分、整えるための分、そのものをきちんと使うための分、これが「自然にかなった限度内」ということだ。その限度内である限り、活動であれば、自分にムチを打つことなく淡々と無理なく続けられて、その結果整うし、ものであればきちんと使うお気に入りのものだけの生活に落ち着くことができる。そして自然の限度に適っている分、超過分に対して時間と労力とお金を吸い取られることが少なくなるので余裕ができて心が平穏になる、楽になる。

 

私たちは、優越感を得れば心が楽になると思っているのだけれど、面白いことに優越感を得ようとすると心は楽にならない。優越感を求める方向性の心の状態ではなく、大事にする方向性の心の状態に幸福はある。

 

声出して切り替えていこうと思う。

 

以上です。