先日、青山美智子さんの『赤と青とエスキース』という本を読んだ。
同書に以下の文章があった。
鬼は外。鬼は外。
出ていけ。出ていけ、出ていけ。
私の中の鬼。弱くて、いじけてばかりで、疑り深くて、虚勢ばっかり張っている鬼。
これは主人公の女性が自分の弱い部分、醜い部分に気が付き自己否定している箇所である。
私たちには物事を良いものと悪いものに分ける傾向がある。きれいなものと醜いものに分ける傾向がある。肯定するべきものと否定するべきものに分ける傾向がある。その分け方は基本的に世間の価値観や周囲の人間の価値観にある程度は依存するが、結局は個々人による。
ここで重要なのは、私たちは自分が悪と見なしているもの、自分が醜いと見なしているものがこの世からすっかりなくなれば世界は良くなり、きれいになる、エブリシング・オーケーぽよ、と思っているということだ。自分の悪の部分、自分の醜い部分がなくなれば自分は善人になれる、きれいな人間になれる、エブリシング・オーケーぽよ、と思っている。都合の悪いものを消し去ればきれいになると思っている。
だから、悪を見つけると徹底的に責め、苦しめ、否定し、消し去ろうとする。相手の悪を見つけては相手を否定し、相手を浄化しようとする。あるいは相手そのものを消し去り世界を浄化しようとする。自分の悪を見つけては自分を否定し、自分を浄化しようとする。あるいは自分そのものを消し去り世界を浄化しようとする。
心の病や自殺は、悪を否定する気持ちがド級に強いことが原因なのではなのではないかしらん。悪を否定して消し去れば物事は良くなるという思考パッターンがド級に根強いことが原因なのではないかしらん。
ここでもう今一度上記の主人公の心の声に注目してみるぜよ。
彼女は明らかに自分の弱い部分や醜い部分を鬼に見立て、その鬼を自分の中から追い出そうとしている。
鬼はーそとぉー、福はーうちぃーと絶叫しては豆を撒き散らし、自分の都合の悪い部分は排斥し、都合の良い部分だけを自分とみなそうとしているのかもしれへんどす。
だがしかーし、醜い部分や弱い部分であっても、それらは厳然と自分のかけがえのない一部であって、どんなに責め立て、傷つけ、否定しても消えることはない。そうして責め立て、傷つけ、否定してもただただ苦しいだけだ。しかし、悪は思う存分苦しめてもいいと思っているからこそ責め立て、傷つけ、否定しようとしているわけだし、悪を苦しめて消し去れば自分は良くなると思っているわけだからもう止めようがない。
私たちはこの主人公のように悪を鬼と見なすことが多い。しかし、仏教では悪の存在を認めず、悪を無慈悲に排斥しようとする心、悪を冷酷に苦しめようとする心、悪であればどんなに粗末に扱ってもいいという冷淡な心、悪であれば容赦なく罰してもいいという残酷な心を鬼と見なす。
つまり、悪を消し去れば善人になれるという心、都合の悪いものを消し去れば世界は良くなると思っている心、そういう心そのものが鬼なのだ。
主人公の女性は心の鬼を追い出そうとしているけれど、そういう自分が鬼だということに気づいていない。そしてそれは彼女だけではなく、私自身についても言えるし、世間全般についても言える。
100%善良な人間はいないのだから、鬼の心を持っている限り必ず自己否定が生じ、その自己否定が不安や苦しみを生み出す。
持ち前の洗練された冷徹な鬼の心でもって相手を良くしようと、世界を良くしようと、自分を良くしようとしていないか、相手を否定すれば、世界を否定すれば、自分を否定すれば状況が良くなるという鬼の思考パッターンにはまり込んでいないか。
自分の中に悪を責め立てる鬼がいたら「よっ!鬼、元気?最近、花粉やばくね?アルガードすぐなくなっちゃうわ。てかいつも『悪人責め』おつかれさん。お前も大変だよなー、ずっと悪を責め立てないといけないもんなー。きりないよな。とりあえずケンタ行かね?なんか今セールやってるっぽいよ。いや、まじで。フライドチキン久しぶりじゃね?今日はおれおごるわ」みたいな感じで、鬼にもフレンドリーにいきたいものだ。
以上です。