仏教では、ものを大事するということはものを使わずにとっておくことではなく、ものをきちんと使ってあげることを指す。
一事が万事で、ものの扱いは自分や他人の扱いと繋がっており、ものを粗末に扱うと自分や他人を粗末に扱ってしまうし、ものを大事にできると自分や他人を大事にすることができる。そして、身近なものや身近な人を大事にすることそのものの中に幸福はあると仏教は説く。
何かを大事にするためには、そのものに注意を払う必要があるし、時間も労力もお金もかかる。つまり、大事にできるものの量には限度がある。その限度を超えた量のものを持ってしまうと、ものを粗末に扱わざるを得なくなり、結局その粗末さは自分に跳ね返ってくる。
そこで仏教では「整理」が勧められている。
整理というのは、身の回りのものを使っているものと使っていないものに分け、使っていないものを捨てることだ。
ものの価値というのは値段ではなく、そのものを大事に使っているかどうかで決まる。安価であっても日々大事に使っているものというのは価値が高く、高価であっても使っていなければ価値はない。使っていないもの、価値がないもの、そういうものは結局ゴミだ(仏教ではそれを「糞」という)。
果たして自分はゴミを溜め込み、ゴミに囲まれた生活にふさわしい人間なのだろうか。無論、そうではない。そうではないからこそ仏教は整理を勧める。
仏教は一人ひとりに尊い存在価値を見出すからこそ、ゴミを捨て、価値のあるものだけに囲まれた環境を整えるよう勧めるのだ。
使っていないもの=ゴミという意味では、私もかつてはゴミ部屋の住人だった。
元々あまりものを持つ方ではなかったが、それでも使っていないけれど捨てられていないものは結構あった。そして少しづつ整理を実践していくと以前よりも格段にものが減り、生活が身軽になった。
だからといってものをほとんど買わないというわけではなく、ものはちゃんと買う。ものを買い、その分使わないものが生じて来た場合は、それをきちんと捨てる。そうすることによって、ものの量は増えることなく、持ち物の新陳代謝が起こる。ものが滞留することなく循環することになる。物事は水と同じように滞留すると腐り、循環すると清らかになる。
使っていないものは捨てるという整理習慣が身についてくると、ものを買う時に「これはきちんと使ってあげられるだろうか」と立ち止まって考えることが多くなる。
使ってあげられる頻度があまり見込めなかったりすると、それは使わない分価値を下げることになるので、値段相応の価値はないと判断し買わない。
逆に、高い頻度で使ってあげられそうであれば、それは使う分だけ価値が上がるので、値段以上の価値があると判断し買うことになる。(買う時は大事に使ってあげやすくなるように少し上質なもの、少し高いもののほうがいい)
整理を実践していくと、使っていないものは手元を離れ、使っているものは手元に残り続ける。そうして手元に残り続け、これからも長く使い続けていきたいものが本当に価値のあるものだ。ブランドや市場価格ではなく、日々愛用し続けている年月によってその価値は決まる。
1Kの小さなアパートの部屋を見回してみると、私にもかれこれ十年以上愛用しているものがいくつかある。
・祖母から買ってもらった毛布
・レッドウィングのブーツ
・CASIOのG-SHOCK
これらは今でも日常的に使っている。こういうものがあるということはありがたいことだ。今愛用しているその他の持ち物も末永く使い続けていけるように大事に使っていこう。(もちろん、どんなに長く使っていても使わなくなったら捨てていこう)
P.S.
みなさんが10年以上愛用しているものも気になるな。