おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

お金をかき集めても人からは大事にされない

私は自分の資産額を毎月チェックしている。

 

特に難しいことはやっておらず、預金残高と投資信託の評価額を確認し、表に簡単にまとめているだけだ。

 

とてもありがたいことに私の資産額は着実に増加していっている。

 

つまり私は過去の自分と比較すると毎月これまで以上に金持ちになっている、これまで手にしたことのない資産額を手に入れている、というわけだ。

 

だから何だと思うだろうが、だから何なのだろうと私も思う。

 

ありがたいことだなー、としみじみとは思う。

決して高給取りではなかったとしても、資産額が増えていっているということは、出費が安定していて健全な家計であるということの証左だからな。

 

だがしかーし、資産額が増えた分だけ幸福になったかというと決してそうではない。もちろん不幸になったわけでもない。特段何の変化もない。

 

今よりも資産額が2倍になったら、10倍になったら劇的に幸福なると盲信し、金をかき集めるという選択肢もあるかもしれないが、現在の生活費(月10〜12万くらい)で余裕で生活が安定している以上、金をさらにかき集めようとすることに時間と労力を費やすことに意味は感じないし、私が人生の指針としている仏教的にも意味はない。

 

私たちが金をかき集める理由は、自分を大事にしてもらいたいからだ。「私はこんなに金を持っている。だから私はこんなに価値のある人間である」ということを証明し、価値のある人間であると認めてもらい、価値のある人間に相応しく、人から大事にされたいと思っているからだ。

 

でも実際はどうか。金をただ持っているというだけでその人自身のことを本当に大事にしたいと思うかしらん。私のがらんどうの脳髄で思考実験をしてみると、一瞬にして否という結論が跳ね返ってくる。多くの人もそうだろう。

 

もちろんその人が大金を持つにあたり見習うべき点はたくさんあるかもしれない。その点はその点で敬っていく必要がある。しかし、「金を持っているから人から大切にされる」という考えは段違いな勘違いで、大金を求めることは人から大事にされるための有効な手段では決してない。

 

むしろ人は自分をどんな時も大事にしてくれた人を大事にしたくなる(その過程で雑に扱ってしまうこともあるが、それは信頼関係があるからこそで、いずれこの人はまじで大事にしないといけないと思える時が来るはず)。人から大事にされるためには、大金を求めるのではなく人を大事にする術を身につける必要がある(とか言う私は全くもって身についていないぜよ)。

 

だからと言って大金を求めることを否定したいわけでは決してない。

その大金が自分や人を大事にするための手段なのであれば、それはとても有意義なことだと思う。だけど、その大金が人を見下して優越感に浸り、人から認めてもらうための手段なのであれば、それは意味がないどころか苦しみの原因にさえなる。

 

私たちは大金を求めて生きているが、その大金を手に入れて何をしたいのか?

人を見下したいのか?確かに人を見下すためには莫大な金が必要だ。しかし、仏教によると、その人を見下そうという思いそのものが結局は苦しみを生み出す。これでは苦しむために大金を求めているようなもので、意味がないじゃんけ。

自分や人を大事にしたいのか?では、今よりも2倍10倍の資産がないと自分や人を大事にすることは本当にできないのか?

 

話がまとまりそうにないのでここで終わります。