おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

時間は自分だけでは使い切れない

連休最終日。明日から仕事だ。

 

だからと言って気分が落ち込んでいるわけではない。

 

この連休は独身者として自由気ままに過ごすことができ、やっぱ休日はいいなーと思う一方で、休日はほどほどでいい、とも思う。

 

わたしたちは何をしても何をしなくてもいい自由な時間を無尽蔵に欲しがる傾向があるが、実際問題として我々が自分のために有意義に過ごせる時間には限りがある。

 

やるべきことをやり、やりたいことをやった後にそれでも自由な時間があるという場合、私たちはその時間をどうでもいいことについつい惰性で費やしてしまう。

 

私は1年間肉体労働をして資金を貯め、海外を1年ほどブラブラと放浪したことがあるのだけれど、それはもちろん貴重な経験だったのだけれど、そのほとんどの時間は退屈だった。

 

放浪の始めの頃はすべてが非日常であり刺激的だったが、非日常も繰り返され慣れれば日常となる。その日常においても金は十分にあり(放浪したのが発展途上国ばかりだったからよほどの浪費癖がない限り金に困ることはない)、働く必要もないため、時間がとにかく有り余っていた。そしてこれといって何かやりたいことがあるわけでもなかった。

 

自分のためにやることと言えば、宿を準備し、選択を数日おきにし、近くの食堂へ飯を食べに行くことくらいだ。そういう自分のための時間はすぐに終わり、あとは時間を持て余すだけだった。

 

言い換えると、異国の地で、ただただぼさっと惰性でほとんどの時間を過ごしているだけで、何の充実感も感じることができなかった。

 

この経験から学んだことは、少なくとも私にとってではあるが、非日常はいずれ日常となるため日常こそが大事であるということ、そして、その大事な日常が自分のための時間のみで構成されていると、充実感を得ることは難しいということだ。

 

中には休みがどんなに長くてもその一日一日を充実して過ごすことができる人もいるかもしれないが、幸か不幸か、私にはとうていできない芸当だ。

 

実際に今の仕事に就くまでに私は2年間無職で、言うなれば約700連休を経験したが、その時よりも、カレンダー通りに仕事と休みが配合された今の日常の方が心身ともに調子が良い。もちろん、休日の終わりにはある種の嫌な感じも感じはするけれど、何もやることがない茫漠とした日常を目の前にして感じる退屈よりは遥かに良い。

 

時間は自分だけでは使い切れないものなのだから、使いきれない分は他人に大事に使ってもらったほうがいい。そういう意味で、働くことができているというのはありがたいことだなー。

 

かつて働くことを嫌悪し、見下していた私の心の変化にびっくらこいている。

まじで諸行無常だ。

 

ちょうどいい長さの連休でした。

ありがとうございました。