おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

となりの係長

係長は何かと苦しんでいる。

詳細は割愛するが明らかに苦しんでいる。

 

仏教では苦しみの原因はその人自身にあると考える。

私の苦しみの原因は私自身にあり、係長の苦しみの原因は係長自身にある。

 

苦しみを生み出してしまうような業、わかりやすくいうとその人のものの捉え方や発想や解釈、そしてそれらに基づく行動が苦しみを生み出し、苦しみを引き寄せる。

 

ということは何かと苦しんでいる係長を観察し、この人はどのように世界を見ているのだろう、どのように物事を解釈する傾向が強いのだろう、どのような発想で行動しているのだろう、ということをしみじみと考えてみることで、苦しみを生み出す原因がわかってくるのではないかしらん。そしてそれは自分自身を観察することにもなるのではないかしらん。

 

先日、私はある業務を顧客から依頼された。

 

私は暇を持て余していたので、早速その業務に取り掛かり、無事に完了、早速顧客に連絡しようとした。

 

すると係長が、そんなに早く業務を完了させてはいけない、その業務はそもそも急いでやるものではない、すぐにやってしまうと顧客はすぐにやってもらえるものと勘違いし、その噂が広がり、他の顧客も同様のペースを要求してくるかもしれない、それは結局あなたの首を締めることになる、と割り込んできて、顧客への連絡は後日行うことになった。

 

私としては、特段急ぐつもりもなく、遅かれ早かれやらなければいけない業務であり、暇を持て余していたので、無理なく取り掛かり、無理なく終わらせたつもりだ。加えて、それは顧客が必要としているものなのだから、早く連絡できるのであればそれに越したことはない。以後、その他の顧客が望んでいるペースに応えることができなくなれば、その旨をその都度事前に伝えておけばいいだけだ。

 

ここで、係長の考え方が正しいのか私の考え方が正しいのかと議論することに意味はない。

 

仏教では何が正しいか何が間違っているか、つまり正義は問題にしない。

仏教ではそれが苦しみを生み出すものなのかどうかを問題にする。

 

私の場合はすぐに顧客に連絡するべきだというこだわりも特になかったことから、そうでやんすか、とテキトーに流すことができた。一方で、係長は自分の業務ではないにも関わらず、全力で顧客への連絡を遅滞させようとしてきた。つまり、係長は自分の考えに強いこだわりをもっているわけだ。

 

んじゃあそれはどのような考え方、発想、解釈、捉え方なのだろうか。

 

それは、顧客は私を苦しめるものである。私は顧客によって苦しめられている。邪魔をされている。顧客は悪だ。私を苦しめ、邪魔してくる悪のために動く必要はない。むしろ、悪になら多少の不便を被らせてもいい。それくらいしておかないとつけ上がってまた私たちに迷惑をかけてくる。よって私が業務をあえて遅らせるのは悪から私を、私たちの部署を守るための善であーる。

 

まぁこんな感じだろう。

 

ここで注目するべき点は、係長は悪を苦しめることは善であると思っていることだ。自分が気に食わない存在を悪とみなし、悪であればどんなに不便をかけてもいいと思っている。悪を踏みにじることが善だと思っている。

 

顧客への連絡が一日後回しになったところで、顧客自身は実際には苦しまない。顧客からすれば想定内の時期に業務が完了しただけだ。係長は悪を懲らしめているつもりでしめしめと思っているだろうが、現実的に先方はダメージを一切受けない。

 

んじゃあ、係長は何を苦しめているのか。それは係長の心の中の顧客だ。係長は「あちしは善人」というところに立ち、自分の心の中で悪としての顧客を思い浮かべ、その顧客を懲らしめてスッキリしている。だがしかし、それは自分の心を傷つけて悦に浸っているのと同じだ。係長は相手にダメージを与えているつもりだが、実際には自分自身にダメージを与えているのである。そうして自分の心を傷つけているのだから苦しいのは当然じゃんけ。

 

「これは善である」という名目で、心の中で悪の姿を思い浮かべ、その悪を徹底的に懲らしめ続けているのは何も係長だけではない。

 

私たちは日々のニュースで悪として取り上げられる独裁者や犯罪者等を心の中で思い浮かべては彼らをズタズタに引き裂いているし、日常生活で気に食わない人がいるとその人のことを思い浮かべてはフルボッコにしている。心の中でそれらの悪を徹底的に懲らしめたところで現実は何も変わらず、ただただ自分の心を傷つけて、自分を苦しめているだけということに気が付かずに・・・。

 

このような自傷行為をやめることができない私たちを見て、仏や菩薩はまじで可哀想じゃんけ、と憐れむのである。

 

んじゃあ直接的に相手を傷つければ相手もダメージを受けるからええじゃないかええじゃないかと百姓一揆でも起こす勢いで私たち凡愚は考えてしまうが、それはそれで苦しみしか生まない。

 

私たちは結局自分の心を通してしか相手を見ることができない以上(だからこそ相手をいい歪めて見てしまう)、その攻撃が直接的であろうとなかろうと自分の心を攻撃してしまうことになるからだ。

 

長くなりそうなのでここで終わります。