おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「ああじゃないといけない、こうじゃないといけない」という自分勝手な基準

私たちが苦しむ大きな原因は自分で「ああじゃないといけない、こうじゃないといけない」という基準を作り、その基準を満たさない人を徹底的に責めることから生じる。

 

例えば「働いている人は価値があり、働いていない人は価値がない」という基準を勝手に作る。「働いている人は善であり、働いていない人は悪である」という基準勝手に作る。

 

そして、働いていない人を見るにつけ、基準を満たしていなのだからきゃつは悪だ。悪人のきゃつは否定してもいい、責めてもいい、傷つけてもいいとして徹底的に見下して攻撃して傷つける。

 

そうして責めている間は「働いているおいどんは大丈夫だぽよ、価値のある人間なんだぽよ」と安心できて気持ちが良い。

 

このような思考回路の人は「働いていない人はダメなんだ、生きている価値がないんだ」という価値観で働いているし、「価値のない人間と思われて、責められないように」という動機で己にムチを打ち、ネバギバの精神で頑張っちゃっている。

 

それはそれでかめへんと思うのだけれど、その発想のデメリットは働かないといけないという強迫観念が働いているが故に、心身が悲鳴を上げていてもネバギバの精神で働き続けてしまうし、諸行無常の理によって状況が一変し働こうにも働けない状態に陥った時に、自分で自分をダメ人間だと徹底的に否定し、自分で自分を責めて苦しんでしまうのであーる。

 

以上は「働かないといけない」という基準を設けている場合を例にとったが、逆に「働いたら負け」という基準を設けた場合も同じだ。

 

「働いたら負け」という基準で働かずにいる人は、働いている人を見下しながら暮らしている。働いている人をみると、働くことを否定している自分が否定されているような気がしてくる。何としても自分のあり方の正しさを証明しようと、働かないことの美学を滔々と説き、労働している人を徹底的に否定する。

 

情けないことに、これはかつてニートだった私の思考回路であったし、このような価値観は古代ギリシャにもあるし、夏目漱石の作品の中にしばしば登場する高等遊民たちも同様の価値基準を持っている。

 

それはそれでいいかもしれないが、諸行無常の理によって、『それから』の代助のように働かなくても良い状況が一変し、どうしても働かざるを得なくなった時、これまで自分が見下していた世界に放り込まれることになる。ということは、それまで自分が見下してきた分、相当な苦しみを味わうことになる

 

働くことを否定していたニート時代の私も、就職しようと思うまでに自己否定の念にかられ、実際に動き出すまでに時間がかかってしまった。

 

結局、働いていようが働いていまいがまじでどうでもいいことなのだ。

どちらのあり方も否定しなければ、その分自分が自由になる。

 

働くということに限らず、我々は勝手にああじゃないといけない、こうじゃないといけないという基準を持ってしまっている。

 

そして世間もああじゃないといけない、こうじゃないといけないという基準を押し付けてくる。

 

そういう基準で行動してしまうと、その基準を満たしている人と満たしていない人という風に世界を分けてしまい、その基準を満たしていなければ、他人はもちろん自分のことさえも見下し、徹底的に責め立て、苦しんでしまう。

 

「こうじゃないといけないからこれをやる」ではなく、「これをやりたいからこれをやる」、「これは自分にとって大事なことだからこれをやる」、ということを増やしていけば、自分のことも他人のことも断罪せずに自由に過ごすことができる。

 

時々でいいから、自分の行動を振り返り、その動機が「〇〇じゃないといけない」という自分勝手な基準から端を発したものになっていないか、よくわからない他人や世間から押し付けられた漠然とした基準から端を発したものになっていないか自問する機会を設けていきたいぜ。