おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

身近な観光地

人が自分色のメガネをかけて生きていることがわかれば、それぞれが自分の見方を伝え、それを理解することが重要だということがわかります。同じ考え方になろう、同意しようとするのではなく、ともかく相手の見方に耳を傾け、聴いてみよう、理解してみようとし、また、自分の考えも聴いてもらおうとすることです。

平木典子著 星井博文シナリオ制作 サノマリナ作画『マンガでやさしくわかるアサーション

 

私たちは必ず自分色の色メガネをかけて日々を過ごしている。まずはこれに気がつく必要があり、これを人間関係の大前提に据える必要がある。

 

自分色というのは時に変化することはあるかもしれないが、それが何色になろうと、色メガネをかけていることには変わりがなく、その色の世界の中で生きていることには変わりがない。

 

世界が青く見えるのであれば、青色の世界の中で生きているし、世界が黄色に見えるのであれば、黄色の世界の中で生きている。

 

何色の世界が正しくて、何色の世界が間違いで、何色の世界が上で、何色の世界が下で、何色の世界が価値があって、何色の世界が価値がないか、ということはない。

 

一人ひとりが何色のメガネをかけていて、何色の世界に住んでいるのか、故に「物事が何色に見えているのか」ということがただただ異なるというだけの話だ。

 

(そして、その色の中で苦しんだり安心したり満足したりしているだけだ)

 

ここで自分も他人も色メガネをかけている、ということがガチムチに理解できていないと、自分の見方が正しい、相手の見方が間違っている、ということになる、あるいは相手の見方が正しい、自分の見方が間違っている、ということになる。

 

そして、お互いに「なんでお前にはあれが〇〇色に見えないんだ!」という不毛な口論を発生させてしまう。

 

なので、ここで理想的なのは「自分にはあれがこう見える、そして、相手にはあれがああ見える」と、まずはお互いの見え方を「見え方そのもの」として洗い出し、理解することだ。

 

まず相手には物事がどのように見えているのか、何色に見えているのかを理解しようとすることだ。

 

その上で、そんな色メガネもあんのかー、おもろいなー、と受け容れた上で、現実的な妥協策を話し合っていくというのがいいかもしれない。

 

そこには相手の色メガネを否定することがないため(そのような色メガネの中にいると苦しいだろうと憐れむことはあるかもしれない)、相手も安心して建設的な議論に参加してくれるはずである。

 

仮に相手が自分の話に聞く耳を持たず、ヒステリーを起こしているとしたら、その相手にはその相手の世界の中でその人にしか見えない何かが見えている(苦しい世界の中に住んでいる)。

 

その相手は「自分は常時色メガネをかけている」ということを理解できておらず、自分の見え方が物事そのものと過信しており、自分は物事をありのままに見ていると盲信しているので、どうしようもない。

 

その人にとって物事はそうとしか見えず、それ以外の見え方があるということが想像できない。

 

だから他人がおかしいとして他人を否定したり責めたりして苦しむか、自分がおかしいとして自分を否定したり責めたりして苦しむかしている。

 

ということを理解すると、他人が直接苦しみをもたらしているわけではなく、自分が苦しみ色の色メガネをかけていて、苦しい世界の中に生きているから苦しむということがわかってくる。

 

だから同じ出来事が起きても、それによって苦しむ人とそうでない人がいる。

 

自分も他人も異なる色メガネをかけていて、それぞれの色の世界の中で生きていて、それぞれの世界の中でてんやわんやの喜怒哀楽劇場を繰り広げているだけ、ということがわかってくると、自分はどのような色メガネをかけて、どのような世界の中で生きているのかが気になってくるし、相手についても、相手がどのような色メガネをかけていて、どのような世界の中で生きているのか気になってくる。

 

お互いにかけている色メガネが違うのだから同意できないことが出てくるのはごく自然なことだが、相手には物事がどう見えているのか、つまり相手の世界がどうなっているのかをベトナム観光みたいな感じで楽しむことができる。

 

自分と他人の色メガネの存在に無自覚の時、そこはどちらが正しいかを証明し合う戦場と化していたかもしれないが、自分も他人も色メガネをかけていてどちらも物事を正確に見ているわけではないことに自覚的である時、そこは相手の世界を知ろうとすることによってどんな観光地よりも面白い観光地となり得るかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。