おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

懲罰思想が苦しみをもたらす

主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民とその地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

 

 周知のとおり、この二つの町に住んでいたのは悪い人間ばかりである。彼らが消えたおかげで世界はいくらかマシになった。

 ロトの妻は、もちろん、町のほうをふりかえるなと命ぜられていた。だが彼女はふりかえってしまった。わたしはそのような彼女を愛する。それこそ人間的な行為だと思うからだ。

 彼女はそのため塩の柱にかえられた。そういうものだ。

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5

 

私たちには懲罰思想というものがあり、悪は罰せられるべきだ、悪は苦しめるべきだ、悪を消し去ることは正しいことだ、悪を傷つけることは正しいことだ、悪は見下してもいい、悪は馬鹿にしてもいい、悪はどんなに粗末に扱ってもいいという発想が根深くある。

 

そしてその「悪」というのは自分なりの基準で勝手に設定しているもの、あるいは不特定多数の他人がなんとなく「悪」としているもので、人によって異なるし、時代によって異なるし、場所によっても異なる。

 

ロトの妻というのは、悪は苦しめて当然という懲罰思想が希薄で、ソドムとゴモラの町の人間が硫黄と火によって罰せられていた時に、彼らが苦しんでいることを想像し、可哀相だな、大丈夫かしらん、と哀れみの感情を起こしたが故に後ろを振り返った。

 

そしてその哀れみは「悪は苦しめて当然」という思想からすれば悪になる。

 

なぜなら懲罰思想においては悪を容赦なく駆逐するのが正義だからな。

 

よって彼女はその哀れみにより「悪」とみなされ、その罰として塩の柱に変えられた。

 

この懲罰思想というのはキリスト教をはじめとする多くの宗教にみられるし、宗教を信じていない人にもガッツリと組み込まれている。

 

しかし、ゴータマ・シッダールタ先輩から言わせると、この懲罰思想こそが自分自身に苦しみを生み出す「悪」なのである(仏教では苦しみを生み出す思考パッターン、習慣、思想諸々を「悪」としており、私たちのパッと思いつくような善悪とは異なる)。

 

懲罰思想においては、まずは自分なり基準や世間的な基準で世界を善と悪の二つに分ける(これを仏教では分別心という)。

 

そして、悪(とみなされたもの)を容赦なく徹底的に潰しにかかる。そうすることが正しいということにさえなっている。

 

 

このような思想においては自分が「悪」になったら徹底的に存在を否定されるため、「悪」にならないことが最優先になり、人から「悪」と見なされることが恐怖や不安となり、人から「悪」と見なされないように強迫的に心がけるようになり、他人の目が異様に気になるようになる。

 

そして他人から「悪」と見なされたような気がしようものなら「私は悪じゃないぽよ」と阿鼻叫喚チックなヒステリーを起こす。

 

世間が、私はあんな「悪」ではないでやんす、私はこんなに善人でやんす、私はこんなに価値のある人間でありんす、ということのアッピール合戦で満ち溢れているのはそのためだ。

 

他人の悪を責め立てて、「自分は善人である」というところに立とうとする動き、他人の価値のなさを嘲笑し、「自分は価値のある人間である」というところに立とうとする動きは(世界を善と悪に分けているので、悪を否定することで善の側になれると思ってしまっているのだけれど)、ニュースやワイドショーや各種SNSなどでも容易に見られるし、それ以外の日常空間においても楽勝で散見される。

 

私たちの善と悪という枠組みにおいては、悪は苦しめて当然のものであり、その悪を当然のごとく苦しめるのが善ということになっている。これがいわゆる懲罰思想にもつながってくる。

 

しかし、仏教の善と悪という枠組みにおいては、悪を苦しめようとする発想自体が自分に苦しみをもたらすために悪ということになる。

 

私たちの善と悪の価値観は、悪を消し去れば世界はよくなるという発想、悪を苦しめれば世界は良くなるという発想であり、自分が悪を否定している分、いかに自分は善なのかをアッピールしなければ自分の存在が認められないという発想であり、いかに自分は価値のある存在なのかを証明しなければ自分の存在が認められないという発想でもある。

 

自分が善人であるということや価値のある存在であるということを証明するために、必ず悪人や価値のない存在(と自分がみなしている人)を否定するということが生じ、諸々のいざこざに巻き込まれやすくなる、また、自分自身を価値のある人間だと定義するために価値のあるものを奪い合ういわゆる「競争」や「マウンティング合戦」に身を投じ、心身ともにボロボロになる。

 

その苦しみは神が与えているのでもなく、他人が与えているのでもなく、自分の思想や思考パッターンによって生じている。だからその種の思考パッターンや思想を、仏教では悪という。

 

悪の思考パッターンをしている時点で、その人はこちらがわざわざ苦しめなくても、その思考パッターンによって必ず苦しむし、すでにもう苦しんでもいる。

 

そして一線を超えると勝手に滅びていく。

(仏教で言うところの悪は自傷行為、自滅行為に他ならなず、他人を攻撃しているようでそれは確実に自分を攻撃していることになるからな)

 

だから仏や菩薩クラスの人は、こんなに自分を苦しめる発想をしてまじで可哀想じゃんけ、まじでやめちゃいな、とガチのムチで憐れむ。

 

私たち凡夫は、依然として懲罰思想があるため「いけすかないあいつは悪の思考パッターンにより苦しんでいるし、苦しむことになるのか、まじでざまぁじゃんけ、どんどん苦しめよ馬鹿野郎この野郎」としか発想できず、その発想自体が自分に苦しみをもたらす悪なのだけれど、まぁ、やってしまうものはやってしまうのだから、仕方がない(とはいえ、それが正しいということにはならない)。

 

大前提として、私たちがどのような思想や発想や思考パッターンや価値観を持とうが完全に自由なのだけれど、それぞれの思想や発想や思考パッターンや価値観には自分に苦しみをもたらすものと苦しみをもたらさないものと苦しみを減らすものがあるというのもまた事実で、私たちは自分に苦しみをもたらすものを善であると段違いな勘違いをして、日々わけもわからず人や世間のせいにして阿鼻叫喚している。

 

そして、自分に苦しみをもたらすものの代表格が懲罰思想なのであーる。

 

懲罰思想は相手を苦しめないためにやめたほうがいいというのではなく、自分を苦しめないためにやめたほうがいい。

 

懲罰思想をやめたところで、誰も自分を塩の柱に変えるようなことはない。
勝手にやめて、苦しみを減らした者勝ちだ。

 

自分を塩の柱に変えるとしたら、それは神でも他人でもなく「懲罰思想をやめようとする自分を許すことができない」自分自身なのではないかしらん。

 

自分には今、あいつを塩の柱に変えて罰すれば世界は良くなると思っている人はいるだろうか?

 

若干名いるわ、実際。

 

この思考パッターン自体が悪であり、苦しみの原因でもある。

 

そしてこのことにより自分には悪の側面があるということもわかる。

 

そこで持ち前の懲罰思想により自分の悪の側面を責め立てて攻撃して消し去ろうとすると、さらなる苦しみがもたらされることになる。

 

自分には悪の側面がある。それはそれで仕方がない(だからといって、懲罰思想が正しいということにはならない、どんどん自分にとって都合の悪いものを攻撃していいということにはならない)。ただそれだけだ。

 

声出して切り替えていこうと思う。