おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「あってもいい感情」と「あってはいけない感情」

感情豊かで、感情的にならないときは、さまざまな感情を感じ、受けとめ、それらを活用して人と関わっていることになるでしょう。

平木典子『マンガでやさしくわかるアサーション

 

病気前

表の顔:バリバリ働く(やるぞっ)、かっこつける(ぜんぜんへーき)、自分にも他人にもきびしい(グチを言ってもはじまらないよ)

裏の顔:自分が損することはしない、理屈で考えてばかり(ろんり的に言うとっ)、弱い人を切り捨てる(もー知らん)

細川貂々『その後のツレがうつになりまして

 

まず大前提として、私たちの感情というのはガチのムチで多様で豊かで自由奔放でもある。

 

そして私たちは理性なり自分や社会集団の都合によって気まぐれに設けられた基準なりで、自分の感情を「あってもいい感情」と「あってはいけない感情」の2つに分け、あってはいけない感情については、押さえつけたり、攻撃したり、否定したりしている。

 

まれに、基本的に何があっても心が穏やかな人、感情の起伏が激しくない人というのがいるが、おそらくそういう人は、自分のあらゆる感情に対して寛容で、ネガティブな感情が起こっていないというよりは、ネガティブな感情は起こっているのだけれど自分のネガティブな感情を「あってもいい感情」として受け容れている、自分にはそういう感情は紛れもなく自分の一部分であると受け容れているのだろう。

 

それは言い換えると、自分の感情に対して潔癖ではない、排他的ではないということになる。

 

逆に、感情の起伏が激しい人は、「あってはいけない感情」とみなしている感情が湧き起こってきた時に、それを自分の厳然たる一部分とは受け容れきれず、ゴキブリにヒステリーを起こすみたいな感じのニュアン的な雰囲気でヒステリーを起こし、私には本来こんな感情があるはずがない、こんな感情が起きたのはあいつのせいでやんす、社会のせいでやんす、と阿鼻叫喚しているのかもしれない。

 

あるいは、「あってはいけない感情」とみなしている感情をただただ押さえつけて、内面ではヒステリックなことが起こっているのだけれど、表面上はクールなふりをしているだけの人もいるかもしれない。

 

自分がネガティブだとみなしている感情、醜悪だとみなしている感情というのは、例えば、休みたいという感情、弱音を吐きたい感情、優しくしてもらいたい感情、臆病、卑怯、傲慢、冷酷、猥雑、吝嗇、打算的な感情、殺人的な感情、盗人的な感情、独裁者的な感情、詐欺師的な感情、虚栄心などなど色々あるが、もちろんそういう自分的にネガティブな感情や醜悪な感情はないに越したことはないかもしれないが、どんなになくそうとしても紛れもない事実としてあるものはあるわけだ。

 

厳然としてあるからこそ条件が揃うと湧き起こってくるわけでござる。

 

そのようなどうしようもない事実を受け容れずに、自分の理性が勝手に作り上げた自分の清廉潔白なイメージ、あ、間違えた、イッメージに執着し、そのイッメージに相容れない感情を自分の一部分として受け容れず、こんな感情はあってはいけないぽよ、と抑圧したり無視したり攻撃したり否定したり見下したりしていると、それは実際には自分で自分の一部分を傷つけていることにもなるため、いずれはそのダメージ、あ、間違えた、ダッメージが蓄積され、最終的には心がダウンし、鬱になるのではないかしらん。

 

(しかも、特定の感情を抑圧したり無視したり攻撃したり否定したり見下したりしても、その感情が消え去ることはないので、結局デメリッツしかない)

 

細川貂々さんのツレさんは、鬱になる前は、あってもいい感情とあってはいけない感情の区別がはっきりしていて、「あってはいけないとみなしていた感情」に対してとんでなく厳しかったのではないかしらん。

 

つまり、自分の感情の豊かさや多様性や自由奔放さを認めず、自分の感情に対して潔癖であり、排他的だったのではないかしらん。

 

自分が日頃から排斥している感情が他人の中に見えた場合も、だからこそ、その他人を切り捨てることができたのではないかしらん。

 

自分の感情に日頃からやっていることは他人にもやっている。

他人にやっていることを省みれば、自分が自分の感情にやっていることがわかる。

 

もしもそれが自分の感情を切り捨てるようなことであった場合は、着実に苦しみや不安や恐怖や強迫観念を生み出していて、着実に心へのダメージ、あ、間違えた、ダッメージを蓄積させていて、鬱に確実に近づいて行っているのかもしれない。

 

そして、「自分の醜い感情とみなしたもの」を切り捨てようとする行為や反応は、ガチムチの癖になっているため、一朝一夕ではやめることはできないと思われる。

 

だからまずは、自分の感情に対して潔癖であること、排他的であることに気づき、特定の感情なり思いなり欲望なりを否定したり攻撃している時に、それらの感情なり思いなり欲望なりを否定している自分や攻撃している自分に気がつくだけで十分だと思われる。

 

あー、自分やっちゃんてねー、と自分を自分でボサッと眺めるだけで十分だと思われる。

 

攻撃・否定することに没入しているのか、攻撃・否定している自分の俯瞰的に眺めているのかで全然違うからな。

 

自分の多様で奔放な内面にいかに寛容になれるか。

 

声出して切り替えていこうと思う。