おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常における変えることのできない物事(大前提)

神よ願わくばわたしに

変えることのできない物事を

受けいれる落ち着きと

変えることのできる物事を

変える勇気と

その違いを常に見分ける知恵とを

さずけたまえ

カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5

 

身近な物事を「変えることのできるもの」と「変えることのできないもの」に分けて、「変えることのできる」ものに注力していく。

 

合理的で素晴らしいと思う。

 

自分にとって、何を変えることができて何を変えることができないのか、というのは色んなレベルがあるだろうし、人それぞれ異なると思うのだけれど、ここでは我々全員にとってどうしようもないこと、つまり変えることができないことを羅列していこうと思う。

 

これらは変えることができないのだから、それらを日常の大前提に据えて物事を判断し、行動したほうが合理的で良い感じの日常になる。

 

諸行無常

諸法無我

 

これらは仏教で言うところの真理になるが、言っていることは本質的には実は同じで、だいたい以下のような感じになる。(以下の一つひとつが上の一つひとつと一致しているわけではない)

 

どんなに何かをかき集めて握り締めようとしてもいずれは全てを手放すことになる。

自分を永遠に定義できるものは何もない。

世間的な価値の有無に関わらず自分は大事なんだから大事にしちゃいなよ。

 

私たちは物心と下心がついた時から(いやもっと前からそれはもう始まっているのかもしれない)、自分の価値を証明してくれると思われるものをかき集めようとする。

 

そして、自分の価値を証明してくれると思われるものを手に入れたら、それを失わまいと必死で握りしめようとする。

 

例えば、おもちゃ、レアカード、ゲーム、足の速さ、テストの点数、偏差値、学歴、勤務先、モテ度、出自、家柄、血統、金、地位、名誉、名声、権力、知識、美貌、筋肉、外見、、ファッション、パッション、マンション、知性、才能、人種、民族、国籍、健康、経験、趣味、フォロワー、食べ物、能力、ボランティア、職業、宗教、スポーツ、肩書、希少品、部下の数、善良さ、持ち物、センス、実績、功績、褒章、正義、真理、ライフスタイル、恋人、結婚、家族などなど。

 

何でもいいが、とにかく自分の価値を証明してくれると思われるものを手に入れ、それらをもってして「自分は価値のある人間なんだ」ということを定義しようとしている、証明しようとしている、確認しようとしている、そして「自分は価値のある人間なんだ」というイメージ、あ、間違えた、イッメージを強固なものにしようとしている。

 

そこには、「世間的価値」と「存在価値」の混同という根深い段違いな勘違いがある。

 

「世間的価値」というのは先に長々とウザったらしいくらいに列挙した「私たちが自分の価値を証明してくるものとしてかき集めようとしているもの」に当たる。

 

一方、「存在価値」というのは「この世に存在していていいということの度合い」「生きていていいということの度合い」「この場にいていいということの度合い」に当たる。

 

そして私たちは「世間的価値」と「存在価値」を連動させてしまう。

 

つまり、世間的な価値がある人間は価値のある存在であり、この世に存在する価値がある。逆に、世間的な価値のない人間は価値のない存在であり、その世に存在する価値はない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の考え方をしてしまう。

 

例えば、働いている人は価値のある存在であり、この世に存在する価値がある、だからいてもいい、いたほうがいい、働いていない人は価値のない存在であり、この世に存在する価値はない、いてはいけない、いないほうがいい、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の考え方をしてしまう。

 

(私は、この考え方に若干染まったままニートとして過ごしていた時期があり、そのせいでとても息苦しかったのを覚えている。ニートであること自体が苦しみの原因ではなく、働いていない人のことを存在価値がないとして否定する思考パッターン自体が苦しみの原因なのであーる)

 

「世間的価値」というのは、繰り返しになるが、私たちが「おいどん/あちしは価値のある人間だぽよと証明しようと日頃からかき集めようとしているもの」で、私たちは「世間的価値」と「存在価値」を連動させてしまっているので、「世間的価値」を根拠に自分や人の「存在価値」を断定してしまう。

 

だがしかーし、この「世間的価値」というのはそれがどんなものであろうと諸行無常の理によって必ず変動する。

 

それは時代や場所や年齢や環境や評価者等の数々の条件によって乱高下するものであり、それ故にその価値は一時的なものであり、そして何よりも自分の死によって必ず自分の手元を離れていく、つまり最終的にその価値はゼロになる。

 

吉田兼好先輩は『徒然草』の中で、私たちが日頃やっていることは、春の日差しの中で溶けていく雪だるまを必死に飾り付けようとしているようなものだ、みたいな感じのニュアンス的なことを言っていた)

 

そして「世間的価値」と「存在価値」を連動させていると、「世間的価値」の変動性と必ず手元を離れるという宿命上、「存在価値」も乱高下し、一時的なものであり、最終的にはゼロになる。

 

これは個人の死生観にもよるが、仏教では死後に魂は残り、生きている間は世間的な価値をもってして自分の存在を肯定できていたが、死後は、世間的な価値がない故に自分の存在を肯定できなくなり、自分で自分を否定し苦しみ喘ぐことになる。苦しみの度合いによっては魂自体が消滅する。これを地獄という。

 

この地獄という状態は、「世間的価値」と「存在価値」を連動させている限り、生前にすでに始まっている人もいるし(例えばニート時代の私など)、「世間的価値」を全て失った死後に始まる人もいる。

 

死後の話は各個人の死生観によるものなので、ここでは置いておくことにして、とにかく生きている時に「世間的価値」と「存在価値」を連動させていると、不安と恐怖と強迫観念に取り憑かれた人生になることは確実である。

 

自分で自分の存在価値を認めるためには諸々の条件があり(その条件は各個人が各々の価値観に基づき設けている)、その条件を満たさなければ自己否定が始まり苦しむことになるため、その条件を満たし、満たし続けるために自分にムチを打ち続けることになるからな。

 

例えば、働いていない人には存在価値がないと否定している人は、職を失うことに対して異常に恐れたり不安になったりして、どんなことがあっても自分にムチを打って強迫的に働き続け、苦しみ続ける。

 

んじゃあどうすればいいのかというと、とてもシンプルで、「世間的価値」と「存在価値」を切り離す思考パッターンに切り替えていけばいい、完全に切り離すことは難しくても両者のつながりが希薄な思考パッターンに切り替えていけばいい。

 

「世間的価値」がどうであろうと、そんなこととは関係なく「存在価値」は楽勝で絶対的にある。

 

働いていようといまいと、そんなこととは関係なく「存在価値」は楽勝で絶対にある。だから楽勝で存在していていいし、生きていてもいいし、この場にいてもいい。

 

そういう思考パッターンに切り替えてけばいい。

 

世間的価値だけに注目すれば、その中には違いは確かにある。

お金があるかどうか、働いているかいないかで生じる違いは確かにあるのだけれど、その違いは「世間的価値」の中だけでの違いであり、その違いがどうであろうと、「存在価値」とは全くもって関係がない。

 

「世間的価値」は変動するし、一時的だし、最後には消え去るため、それを根拠に「存在価値」を規定することはできない。

 

「世間的価値」とは無関係に「存在価値」は絶対的にある。

 

これに気がつくと、「世間的価値」がどうであろうと自分の「存在価値」は絶対にあるため、何を手に入れてもあってないようなものだなというような感覚になってくる。

 

「世間的価値」と「存在価値」が連動している間は、大金を手に入れたらその分だけ自分を肯定できるし、逆に大金を失ったらその分だけ自分を肯定できなくなり不安や恐怖や強迫観念に苛まれてしまう。

 

しかし、「世間的価値」と「存在価値」が切り離され、「世間的価値」とは関係なく「存在価値」一定であれば、大金の有無は関係なく、存在価値のある自分が生きていくために必要なお金があればいいということになる(基本的な生活費以上にお金を強迫的に求めてしまうのは「世間的価値」と「存在価値」を連動させているからだ)。

 

うまくまとめられそうにないが、私たちは「世間的価値」によって自分の「存在価値」は規定されるという前提で日々を送っているが、その前提に立つと必ず苦しむことになる。

 

世間的価値は変動するということ、一時的であるということ、相対的であるということ、そして必ず失われるということ、この性質は「変えることができない」。

 

これは「世間的価値」を手に入れることが意味がないということではなく、「世間的価値」をかき集めて握りしめることに注力することが意味がないということ、「世間的価値」を根拠に自分や他人の「存在価値」を決めつけることが不合理であるということだ。

 

そして「存在価値」の「絶対にある」という性質も「変えられない」。

 

変動するものを固定しようとしたり、失われるものを握りしめようとするから苦しむことになるし、絶対にあるものを「ない」と見ようとするから苦しむことになる。

 

「世間的価値」と「存在価値」のそれぞれの「変えられない」性質を大前提として、個々人がそれぞれのレベルで変えられる物事に注力していくことがいっちゃんええのじゃろう。

 

声出して切り替えていこうと思う。