おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「勝てば認められる」わけでは全然ない

仮に論破できたとしても、信頼されるどころか恨まれかねませんし、論理的に説得できたからといって人が動くわけではありません。

 

頭のいい人は、議論の勝ち負けではなく、議論の奥にある、本質的な課題を見極めようとします。

 議論になるのは、その人の根底に何か想いがあるからです。

安達裕哉『頭のいい人が話す前に考えていること』

 

議論に勝つことは不可能だ。もし負ければ負けたのだし、たとえ勝ったにしても、やはり負けているのだ。なぜかといえば――仮に相手を徹底的にやっつけたとして、その結果はどうなる?――やっつけたほうは大いに気をよくするだろうが、やっつけられたほうは劣等感を持ち、自尊心を傷つけられ、憤慨するだろう。

――「議論に負けても、その人の意見は変わらない」

 

「議論したり反駁したりしているうちには、相手に勝つようなこともあるだろう。しかし、それはむなしい勝利だ――相手の好意は絶対にかち得られないのだから」

デール・カーネギー『人を動かす』

 

私たちは、何か議論が起こった時に、すぐにそれを勝負事にしてしまう、ゼロサムゲームにしてしまう。

 

何かにつけて「勝っている自分」を確認したがるマッチョ思想を抱いている。

 

冷静に考えると、上記の引用文のとおり、その議論に勝ち、勝者として認められるなり自惚れるなりしても、肝心の信頼関係の構築や問題解決にはつながらない。

 

むしろ、人間関係や議論している問題を悪化させてしまうことになる。

 

んじゃあ、どうして私たちはこうも勝つことにこだわるのかしらん。

 

それは、「勝者になれば人は自分のことを認めてくれる」という思考パッターンがあるからだろう。

 

自分が勝者になれば無条件で人は自分の存在を認めてくれる、大事にしてくれると思っている。

 

だから勝つことにこだわる。

 

無論、人はその人が勝ったからといって必ずしもその人のことを大事にするわけではないのだけれど、仮にその人が「勝ったにも関わらず大事にされないなー」と感じたとしたら、その人は「まだ勝利が足りないからだ、わたしにはより多くの勝利、より大きな勝利が必要なのだ、そうすれば人は私のことを大事にしてくれるぽよ」と考えてしまう。

 

そして、さらなる勝利を求めて人を打ち負かすことに注力してしまう。

 

当然人はそのような人を煙たがる。

 

だけれどその人にはそれがわからず、勝利の質と量が足りないから自分は大事にされない、と考えてしまう。

 

だからさらなる勝利をより貪欲に求め、さらに相手を打ち負かし、さらに敬遠されてしまう。

 

この無限ループ。

 

ぴえんだ。

 

「勝者になれば人は自分のことを認めてくれる」という思考パッターンの裏には、「自分の存在を認めて欲しい」という欲がある。

 

そしてその欲があるということは、「自分は認められていない」という実感がある。

 

自分は人から認められていない。

だから自分の存在を人に認めてもらいたい。

そして勝者になれば、人は自分のことを認めてくれる。

 

ここでのポイントは、どうして「自分は人から認められていない」と感じるのかということだ。

 

私たちは、自分が人から認められていないと感じる原因は、自分に勝利が足りないからと考えがちなのだけれど、これまで見てきたように、勝利にこだわると人から煙たがられるだけであるため、勝利すること自体は人から認められる直接的な原因にはならない。

 

よって勝利不足が原因ではない。

 

ちなみに、勝つことにこだわるということは負けることへの恐怖でもある。

 

勝つことにこだわっている人が負けてしまうと、自分が勝者であると自負していた時に敗者とみなしてした人に対して起こしていた軽蔑の思いが、自分が敗者になった途端にそっくりそのまま返ってくるために、相当な屈辱を味わうことになり、苦しんでしまう。

 

この苦しみを避けるために強迫的に勝利を求めてしまうのだけれど、そこに心の平穏はない。

 

幸福というのが、心が平穏で平静で温かい状態だとすると、その勝利は幸福をもたらさないということになる。

 

(まぁ、幸福を人を見下すことによって得られる高揚感であると定義している場合は、その勝利は幸福をもたらすことになるかもしれないけれど、その高揚感は一時的だ。)

 

話を戻そう。

 

勝利を貪欲に求めるのは「自分は人から認められていない」と感じているからだ。

 

んじゃあ、どうして「自分は人から認められていない」と感じるのかというと、自分が人のことを認めていないからだ。

 

仮に認めることがあったとしても、そのハードルがあまりにも高すぎるため、そのハードルを超える人がおらず、ほとんどの人を認めるに値しないと思って日々を過ごしているからだ。

 

そして仮に、その高すぎるハードルを超えた人がいたとしても、しぶしぶ認める程度で、その人の粗を探すことはやめることがないからだ(そういう意味では認めていないに等しいのかもしれないが)。

 

自分が人を認めないために、自分が人を認めることがないように、人も自分のことを認めてくれないように感じてしまう。

 

ということは、自分が人のことを認めていけば、自分が人のことを認めるように、人も自分のことを認めてくれているように感じることができるようになる。

 

そうすると、すでに人に認めてもらえていると感じることができているので、勝利することに貪欲になる必要がなくなってきて、次第に勝ち負けにこだわらずちゃんと話ができるようになり、その分、人から煙たがられるようなこともなくなり、むしろ人との信頼関係も築きやすくなってくる。

 

人を認めるためのハードルが自分自身を苦しめるほどにとんでもなく高いものなっていないか、要チェックということか。

 

人を認めない日々を送っていないか、要チェックということか。

 

声出して切り替えていこうと思う。