おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

無駄に気づくための習慣1選

結論から言うと、使っていないものは容赦なく捨てる、つまり整理を習慣にすることで自分はいかに人生を無駄に過ごしているのかを痛感し、これからの人生を大事に過ごしていこうと思えるようになる。

 

周囲を見渡して見ると、そこには必ず使っていないものがあるはずだ。放置されているもの、ただしまってあるだけのもの、飾っているつもりだけど普段特に眺めるわけでもないもの、いつか使うと丁寧に保管しているものなど、とにかく普段使っていないものだ。

 

普段使っていないものを捨てようとした時、それを捨てることに対し私たちは強い抵抗を覚える。特に、使っていなければ使っていないほどその抵抗感は強い。

 

例えば、買ったはいいもののほとんど履いていないスニーカーがあるとする。それを捨てようとすると、まだ履けるから、いつか履くかもしれないから、捨てるのはもったいない、履く時が来るまでとっておこう、とっておいて損するわけでもないし。

 

こんな感じのニュアンス的な雰囲気のスタイル的なスタンスの塩梅っぽい程度らしい風の論理で、ものが捨てられないというのはよくあるよね。

 

この抵抗感というのは、無駄を認めたくないという思いから来る。自分がこれまで時間やお金やものを無駄にしてきたということを認められない思いからくる。買う時は使うと思っていたけれど実際には使わなかったという自分の間違いを認めたくないという思いからくる。

 

私たちは自分の時間と労力を使ってお金を稼ぎ、そのお金をものに替える。そしてそのものが使われていないとしたら、何のためにそのものに時間と労力とお金を費やしたのか。

 

冷静に考えるとただただ無駄だろう。

 

しかし、その使っていないものが手元にある限り、それが無駄だということに気が付くことは絶対にできない。頭ではわかっているつもりになっているのだろうけれど、使っていないものが身近にある限り、いつか使うかもしれないから無駄ではない、私は無駄にはしていない、というバリバリの正当化が進行する。

 

使っていないものを捨てない限り、それが無駄であったということに気がつくことはできないのであーる

 

普段使っていないものを手放してくと、手元にはわずかなものしか残らない(普段の日常生活で実際に使うためには時間と労力が絶対的に限られているからだ)。んじゃあ、使わずに捨てたものは何だったのか。使わずに捨てたもののために費やしてきた時間と労力とお金はなんだったのか。それは無駄以外何ものでもないのだけれど、それを認めたくないからこそものを捨てられない。自分のこれまでの人生は無駄だらけだったと認めたくないからこそものを捨てられない。

 

しかし、人生のどこかのタイミングで普段使っていないものを手放すことによって自分のこれまでの人生は無駄だったと認め、間違った時間と労力とお金の使い方をしていたと認めなければ、これからも使わないもののために延々と時間と労力とお金を費やし続けることになる。

 

私たちはいずれは死に、最終的には持ち物の全てを手放すことになる。

つまり、もので安心しようとしたり、もので自分を定義づけようとしても、最後には全てのものを失うことになる。100%絶対かつ永遠に自分のもの、という状態は存在しない。

 

だからこそ、普段自分が実際に使うものの量以上のものに時間と労力を費やすのは無駄以外なにものでもない。

 

自分が実際に大事に使えないもののために費やす時間や労力やお金があるのであれば、身近な人や身近なものを大事にするためにそれらを使ったほうがいい。

 

なんかまとまりそうにないな。

 

終わるか。

 

以上です。