おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

使わずに粗末にする習慣

会議のための資料を作っていた。

その会議資料は10近くのワードファイルやエクセルファイルから構成されている。

 

私はそれらをPDF編集ソフトを使って一つのファイルにまとめ、ページ番号を振り、必要部数を印刷しようと思っていた。

 

しかーし、ここで係長が以下のような指示を出してきた。

 

・それぞれのワード・エクセル資料を出力し、紙の状態で順番通りに並べること。

・並べたら、各ページの下部にスタンプを使ってページ番号を振ること。

・出来上がったものを原本として、コピー機で必要部数印刷すること。

・PDF編集ソフトは使わないこと(私(係長)が使えないから)。

 

もちろん私は係長の望み通りのやり方で資料を作成した。

 

私は初めてスタンプを使ってページ番号を振ったので、スタンプの位置が下過ぎてコピーした際に数字が切れて見えにくくなり、小言を言われる始末だ。さすがにイラッとした。

 

詳細は省くが、とにかく想定よりも遥かに時間がかかり、なんでこの人は・・・というイライラが止まらなかった。

 

しかし、係長を責めても係長は変わらない。むしろ係長との人間関係が険悪になるだけだ。そして何よりも私が見ている係長は私のフィルターを通して捉えている係長であるため、フィルター上の係長を責めるということは自分を攻撃しているということになる。つまり、私が苦しむだけだ。

 

と、頭ではわかっているつもりだが、やっぱりイライラは止まらない。

これが業というものなのだろう。

 

そういう業があるのだから仕方がない。今の私には自分の思い通りにならないとつい人を責めてしまうところがある、そしてそのせいで苦しみを生んでしまっている、これが事実だ。

 

話を戻そう。

 

係長には身近なものを使わない癖がある。使わないということは活かさないということで、身近なものや人を粗末に扱うことと同義だ。

 

今回の件では、隣の席の私にはPDF編集ソフトを扱える能力がささやかながらもあった。なので資料作りのためにそれを使えばいいだけだ。しかし、その能力をあえて活かそうとしない。

 

身近なものや人を活かしきれていないのは何も係長に限ったことではない。

 

買ったのに着ていない服、買ったのに読んでいない本、買ったのに使っていない道具。

買ったのに持て余している高スペックなもの。雇ったのに持て余している部下や従業員。

 

ものや人には役割や機能や能力があるが、それらをきちんと使ってあげるということ、活かしてあげるということ、大事にしてあげるということは実に難しい。その多くは、所有物としてただただキープされているだけで、そこには躍動がない。

 

ここで係長の机に目をやると、机の半分は山積みの書類やバインダーで占められている。全ての引き出しには書類や文房具がぎっちぎちに詰め込まれている。ついには何も入れることができず、隣の私の引き出しまで使い始めている。机の下のスペースもその半分は書類が詰まったダンボールによって占拠されている。そしてそのほとんどの書類や文房具は一切使用されておらずただただキープされているだけだ。

 

彼女にはどうしてもものを粗末に扱ってしまうという業があるのだろう。

 

上記の一件で私は自分の能力を抑圧されただけで残念な気持ちになった。活かさずにキープだけしておくことの暴力性をささやかながらも感じることができた。

 

身近にほとんど使っていないもの、もったいない使い方をしているものはないかしらん。

飼い殺しにしているものや人はないかしらん。ものや人を活かさずに粗末にしていないかしらん。

 

係長を通じて自分を省みると学べることが実に多いことに気づく。

 

係長にまじで感謝。