おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

イラッとしたことを反省する

昨日の仕事中、私は係長に「台車そこに置くんじゃなくてもっと近くにもってくれば良いのに」と言われて少しイラッとしてしまった。そんな馬鹿にするような言い方しなくてもええじゃないかええじゃないかと江戸っ子風にイラッとしてしまった。

 

ここで通常では、人を馬鹿にするような言い方をした係長を悪者にし、係長を責めまくるというのが我々凡夫のやることであるが、仏教では他人を責めるのではなく、不愉快に感じた原因を自分に求める。

 

私は係長の発言を通じて、自分が馬鹿にされたと感じた。

 

しかし、係長が本当に私を馬鹿にするつもりだったのかどうかはわからない。

にもかかわらず、私は「馬鹿にされた」と感じてイラッとした。

 

現実の真相は定かではないにも関わらず、私は自分の思い込みでイラッとしてしまったというわけだ。

 

ではなぜ私は「馬鹿にされた」と感じてしまったのか。

 

それは私自身が何かを指摘する時に相手を馬鹿にする気持ちで指摘してきたからだ。

 

その相手は問わない。係長、家族や友人、知人、同僚、後輩、または赤の他人問わず、私は何かを指摘する時にその人を馬鹿にする気持ちで接することがあったのだろう。というか思い返すと、確かにあった。

 

つまり、自分が過去に他人に対して起こした負の思いが、今回の係長による指摘をきっかけにして跳ね返ってきたのだ。

 

このように、仏教では自分が起こした思いが遅かれ早かれ自分に返ってくると説く。

 

つまり今回私が嫌な思いをしたのは、係長が原因ではなく、私の過去の種まきが原因だ。ここで係長を悪者にして責めてしまうと、責めるというネガティブな思いがいずれ自分に跳ね返ってきて、いずれ自分を苦しめることになる。

 

私がやるべきことは、これを機会に自分の過去の種まきを反省し、今後不愉快な思いをなるべくしないで済むように、人を馬鹿にする気持ちを減らしていけるように心がけていくことだ。

 

確かに私には人を馬鹿にする思いを起こすところがある。そしてその思いが人から馬鹿にされるように感じる世界を作ってしまい、自分を苦しめる。ただただ反省だ。

 

仮に係長が心の中で私を馬鹿にするような気持ちを実際に起こしていたとしたら、それは私の問題ではなく、係長の問題だ。

 

その思いはなんらかの機会を捉えて必ず本人に跳ね返り、本人を苦しめることになる。私がわざわざネガティブな思いを起こして責める必要はない。

 

自分が起こした思いは必ず自分に跳ね返ってくるという唯識の教えを少しづつ理解していくと、まず人を責めることの無意味さに気がつく。人を責める気持ちは、追々自分に跳ね返ってきてただただ自分を苦しめることになるだけだからであーる。

 

そして逆に、自分にとって心地の良い世界を作りたいのであれば、寛容で暖かい気持ちを起こしていけるように心がければいい。自分がポジティブな気持ちを起こせば、それは自分に跳ね返ってきて暖かい世界が形作られる。

 

今後も何か嫌な思いをしたら、仏教式に反省していこう。