おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

無力感を感じる理由

環境に対する支配をすっかり奪われるという状況を長期間にわたり経験すると、すべてをあきらめてしまう人がいることを、セリグマンの研究は実証したのだ。たとえ正常な状況に戻ったとしても、利益を追求する力や苦痛を回避する力を再び得られとしても、その人は行動を起こさなくなってしまう。無力であることを学習したからだ。

ダニエル・ピンク『人を動かす、新たな3原則』

 

楽勝で変えられることなのに、自分には変えられないという無力感に苛まれて何もしなくなる。これはいわゆる学習性無力感というものなのだろう。

 

この世には自分が直接働きかけて変えられるものと変えられないものがある。

 

まずはそれを見極めてから、変えられるものに集中していけば、それはそもそも変えられるものなのだから少しずつであっても当然変わっていく。

 

変えられるものを変えていくと自己効力感を得られ、学習性無力感に陥ることなく、自信というものがついてくる。

 

しかしながら、私たちの多くは、自分が直接働きかけて変えられるものと変えられないもの区別ができない。

 

それ故にずっと人のことを責め立てている。

 

なんであいつはこうしてくれないんだぽよ

なんでこうじゃないんだぽよ。あいつのせいだぽよ。

 

人を責め立てて変えようとする、人を論破して変えようとする、力を手に入れて力を使って人を無理矢理動かそうとする、つまり他人を変えることに必死になっている。

 

だがしかーし、自分が直接働きかけて変えられないもの筆頭として他人というものが挙げられる。

 

自分には自分の自由な領域があるように、他人にも他人の自由の領域がある。

 

他人を責め立てるのは自分の自由の領域の範囲内なので自由にやってもいいのだけれど(他人を責めるとネガティブな感情を醸成することになり、そのネガティブ感情が自分自身に苦しみをもたらすため、他人を攻撃する行動の一切はおすすめはしない。まぁ自分のネガティブな感情の原因も他人に求めてしまうのだろうけれど……)、自分の攻撃を相手がどう受け取り、どう反応するのかは相手の自由の領域の範疇なのでどうしようもない。

 

無理なものは無理だ。

この事実を刮目し受け入れる必要がある。

 

自分が直接働きかけられないもの、変えられないもの、無理なもの、そういうものを必死に変えようとして時間と労力を割いても、無理なものは無理で、変わらないものは変わらない、そらぁ、自分には何も変えられないという無力感に陥るのは当然ジャマイカ、となぜかボブ・マーリーみたいになってしまった(ボブ・マーリーは語尾にジャマイカをつけないと思うが)。

 

変わらないものを必死に変えようとして、ネガティブな感情を起こし、そのネガティブな感情によって自分自身に苦しみがもたらされている。そしてこの構造に気がつかずに、自分の苦しみの原因を再び他人に求め、その他人を変えようとして必死にネガティブな感情を起こし、必死に自分で自分を苦しめている。

 

んじゃあ、自分が直接働きかけて変えられるものの筆頭は何かというと、自分自身、つまり自分の習慣になる。

 

十分な睡眠をとるかどうか。

顔を洗うかどうか。

歯を磨くかどうか。

部屋を掃除するかどうか。

体に良いものを食べるかどうか。

洗濯をするかどうか。

運動をするかどうか。

自分や人を責めるかどうか。

挨拶をするかどうか。

感謝をするかどうか。

謝罪をするかどうか。

ゴミを捨てるかどうか。

 

(自分の思い込みの中で)どれだけ人や社会からないがしろにされてどうしようもなく無力感を感じることが多かったとしても、自分の日常生活の中に自分が直接働きかけることのできる変えられる領域が必ずあるはずで、それは極めて平凡で地味な領域だったりする。むしろ極めて平凡で地味な領域しか、実際には直接的に働きかけることができなかったりする。それでもなお、その領域は自分の本質的な領域であり、自分そのものを形成する領域でもある。

 

まぁ、無力感に陥っている場合、何をやっても何も変わらない。睡眠を十分にとったり、栄養バランスのとれた食事をとったり、適度な運動をしたりしても、何も変わらない、自分は何をしても価値のない人間なんだ、蔑ろにされるだけの人間なんだ、嫌われるだけの人間なんだ、粗末にされるだけの人間なんだ、というカルト的な思い込みに沈み込んでいるため、その思い込みがロックンロールされて、薄れていかない限り確かにどうしようもないと言えばどうしようもない。

 

この状態を学習性無力感というのだろうけれど、一定の経験を経て学習した結果、無力感に陥っているのであれば、一定の経験を経て効力感を得ることもできるわけだ。

 

これまでは他人をどうにかすることに時間と労力を割き、例えばネットに罵詈雑言を書き続け無力感に苛まれていたかもしれないが、これからは自分の習慣、粗末にする習慣を大事にする習慣に変えることに、ネットに罵詈雑言を書き連ねていた頃のエネルギーを注いでいけばいいジャマイカと、なぜかまたボブ・マーリーみたいになってしまった(無論オムロンボブ・マーリーは語尾にジャマイカをつけない)

 

この世には自分が直接働きかけて変えられるものと変えられないものがある。

 

声出して切り替えていこうと思う。