私はついついスマホを触ってしまい、ダラダラと過ごしてしまうことが多かったことから少し前にスマホとの付き合い方を見直したのだけれど、今のところ結構うまくいっている。
今の私のスマホに関する指針は以下のものだ。
・通知音は全てオフ(ミュート)
・通知アイコンは必要最小限に留める(メール・LINE・電話のみ)
・アプリの数は必要最小限に留める
・SNSのアプリは削除(そもそもTwitter以外のSNSはやっていない)
・ショッピング系のアプリは削除
・朝はスマホのアラームではなく、目覚まし時計で起きる
・職場にスマホは持っていかない
・よほど遠くに出かけたり、誰かと出かけたりしない限りスマホは携帯しない
・午前中はスマホを触らない(休日以外)
・帰宅してから食器を洗い終える間のみスマホ使用可
平日だと、基本的にスマホを触ることができる時間は1日2〜3時間に限られる。その時間内に動画を見ることもあるが、多くの場合は音声を聴いており、スクリーンを惰性で見続けるということはほとんどなく、夕飯の支度や皿洗いは滞りなく遂行される。
(夕飯を食べながら音声を聴いているのはさすがにやめたほうがいいと思いつつもついついやってしまっている。やめていこう。)
休日はブログを書き、運動をした後は掃除や洗濯や昼食の支度などの家事をするのだけれど、家事をしている間はスマホで音声を聴いている。昼食以降は自由時間なのだけれど、その時に家にいるとどうしても惰性でスマホを触ってしまい時間を空費してしまうので、スマホを置いて意識的に外に出るようにしている。
部屋でダラダラとスマホと繋がっているよりは、スマホを家に置いて、外を散歩したりカフェで本を読んだりウィンドウショッピングをして店員さんと話したりした方がよほど気持ちが良いからな。
確かにスマホを触っている時もある種の気持ち良さを感じることはできる。しかしながらその気持ち良さというのは人工化合物的な気持ち良さで、自然で健全な気持ち良さではないらしい。
人工化合物的な気持ち良さというのは、少ない労力で一気に気持ち良くなるというのが特徴なのだけれど、スマホは指をちょろちょろと動かすだけで相当な快楽物質を放出させるようなデザインになっているため、もろにそれに当てはまる。
一方で自然で健全な気持ち良さというのは、体を動かしたり、自然と触れたり、人と話したり、ゆっくりと本を読んだり、サウナでぼさっとしたり、体全体や脳髄全体がまんべんなく活動し、徐々に気持ち良くなり、緩やかな気持ち良さが長らく続くみたいな感じのニュアンス的なもので、この気持ち良さには充実感が伴う。
少なくとも私の場合、惰性でYoutubeを3時間鑑賞したり、ネットサーフィンを2時間費やたりして、いやー、良い時間だったなー、としみじみと感じたことはないが、山の中を6時間歩いたり、サウナに2時間入り浸ったり、本を2時間読んだりすると、いやー良い時間でござんした、と頭が下がるようなしみじみとした充実感を必ずと言っていいほど味わう。人工化合物的な快楽と自然で健全な快楽の間にはそういう実感の違いがある。
スマホを触る時間を減らすということはそういう人工化合物的な快楽を減らすことになり、そこで浮いた時間と労力を健全で自然な快楽を得られる活動に振り向けることができれば心身は楽勝で整いやすくなるだろう。
それは私の場合は、睡眠であったり、運動であったり、読書であったり、ブログであったりする。スマホを触る時間を制限したことにより、それらに割く時間を増やすことができ、良い感じである。
もちろんスマホ自体を敵視して、いずれは完全に生活から排除しようとは思わない。今の付き合い方が私にとってはバランスが良いのかもしれない。
おそらく諸行無常の理によってそのバランスが崩れたりすることもあるだろうから、定期的にスマホとの付き合い方は見直していこう。