おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

正しい人は学べない

 教師は同じことばを語り、同じ情報を伝えているつもりでも、ひとりひとりが受け取るものは違います。生徒たちが一人の教師から同じ教育情報を受け取るということはありえないのです。

 生徒は自分が学ぶことができること、学びたく願っていることしか学ぶことができません。

 

「自分は正しい」ということを前提にした「学び」というものは成立しません。

内田樹『先生はえらい』

 

何かの情報を受け取った時、私たちはそれを自分なりにフィルターをかけ、編集し、再構築し、それを自分なりの理解、自分なりの解釈としてしてしまう。

 

フィルターのかけかた、編集の癖、再構築の傾向が一人一人どうしようもなく異なるために、一人一人の理解なり解釈なりが異なり、そうした理解や解釈が個々人が「現実」と感じている世界を構成している。

 

したがって、普段は他人と全く同じ世界を捉えているようにテキトーに調整しているが、実際は一人一人完全に異なる世界を生きているということになる。

 

だからこそ、ある情報や事象に対して、心穏やかな人もいればカルト的な錯乱状態に陥る人もいるわけだ。

 

情報Aが発せられると、それは個々人のバイアスによって再構築され、Bさんにとっては情報Bになり、Cさんにとっては情報Cになり、Dさんにとっては情報Dになる。

 

実際は自分なりの解釈によって情報Aを情報Bとして受け取っているのに「自分は正しいぽよ」と自惚れていると、「自分の解釈(情報B)=ありのままの現実(情報A)」ということになり、本来であれば成り立たない等式が自分の中で成り立ってしまうことになり、両者のギャップに気が付きもせず、そのギャップを埋めようともせず、つまり学ぼうとせず、現実とのギャップが大きいままの自分ありの世界で生き続けることになってしまう。

 

その「自分なりの解釈=自分なりの世界」は実際の現実とかけ離れすぎているために、実生活において多方面に渡ってトラブルを引き起こし、心を乱し続ける。

 

そして、私は正しいのになんでこんなにうまく行かないんだ、私は正しいのになんでこんなに辛いんだ、私は正しいのになんでこんなに苦しいんだ、私は正しいのにこれはおかしい、全部あいつのせいなんだ、あいつらのせいなんだ、社会のせいなんだ、私は正しいんだ、という思い込みにガチムチにはまり込んでしまう。

 

その結果、「私は正しい」「私は間違っていない」という大前提で、周囲の人や環境に当たり散らすことしかしなくなる。

 

「現実離れした解釈=自分なりの世界」が変わることなく、その中に閉じ込められ、延々と苦しみ続けることになる。

 

自惚れて「正しい自分像」に執着することは実に恐ろしい。

学びたくても「正しい自分像」に執着している分だけ学ぶことができない。

 

「正しい自分像」への執着が凄まじいと何も学べず、その結果、自分なりの解釈も変わらず、自分の世界も変わらず、現実離れした世界を生き続け、なんでこうじゃなんだぽよ、なんでああじゃないんだぽよ、と嘆き続けるだけの日々になってしまう。

 

目の前の現実(自分の想定とは異なっている現実、つまり自分の間違いを証明してくれている現実)を受け入れることができず、現実を拒否し、誤魔化し、「正しい自分像」に執着し、目の前の現実に合わせて自分の思い込みを変えようとせず、自分の思い込みに合わせて現実を無理矢理変えようとして常に無理が生じてしまう。

 

怒る、ということは「私は正しい」「私は間違うことがない」と自惚れているということなのだろう。

 

声出して切り替えていこうと思う。