おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「固定化する」という癖

ある程度の親密さを感じずに聴くことは、本当に聴いていることにはならない。それでは受動的で対処的であり、自発的に、積極的に関わってはいない。真に聴くという行為は、雨で濡れた高速道路の運転に少しばかり似ている。スピードは命取りだ。

 

会話の相手は、一文一文を本当に最後まで終えているか? あなたに邪魔されることなく、自分の意見を完全に表しているか? あなたがまくし立てる前に、相手は一呼吸入れる余裕があるか? スピードを落としたほうが、遠くまで行けることもある。

ダニエル・ピンク『人を動かす、新たな3原則』

 

私たちは人の話を聴かずに途中でぶった切ってしまうことが多いが、人の話を途中でぶった切ってしまうということはどういうことなのかしらん。

 

詰まる所それは、相手に時間と労力を割きたくないという精神的なケチ臭さの表れなのかもしれない。

 

相手に時間と労力を割きたくない、相手にちゃんと注意を払いたくない。

相手を大事にしたくない。

 

だから話をぶった切り、自分は正しいという大前提に立って、つまりはこういうことだろう、と相手の言いたいことを足早に要約し、断定し、ワケワカメなアドヴァイスを披露する。

 

相手に注意を払わず勝手に相手の言いたいことを決めつける、勝手に相手のことを決めつける。この人はこういうことが言いたいんだ、この人はこういう人間だと勝手に決めつける。相手のことを勝手に固定化する。

 

勝手に固定化すると、常に同じ状態だと思い込むことができるので注意を払う必要がなくて楽だ。

 

だがしかーし、固定化すると、自分が固定化したイッメージしか捉えられなくなる。

実際の相手を捉えられなくなる。

 

現実の実際の相手というのは自分の思い込みとは別に存在しているにも関わらず、自分の思い込みでしか相手を捉えることができず、そこには必ずギャップが生じる。

 

私たちは物事をありのままに捉えることが絶対にできないため、そのギャップをゼロにすることはできないのだけれど、自分は相手をありのままに捉えられているわけではないという前提に立てば、急いで断定することをやめることはできる、注意を払うことはできる、時間をかけることはできる。

 

自分は相手をありのままに捉えられているわけではない、つまり自分は間違っているかもしれない、自分は必ずしも正しいわけではない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で「私は正しい人間何だぽよ」という自我が薄まってくれば、他人により慎重な注意を向けることができるのかもしれない。

 

「私は正しい」という前提に立ち、自分が捉えている世界がありのままの世界なんだと段違いな勘違いをし、相手を自分の思い込みのイッメージでしか見ないということは、相手を見ようとしていない、相手に注意を払おうとしていないことと同じで、それは相手に寂しさを与えてしまう。

 

(相手に注意を払う時は、相手が自分の思い通りに動いてくれているかどうかを気にしている時で、それは他人の挙動によって「正しい自分」というイッメージが保たれるかどうかを問題しているに過ぎない。実際に関心があるのは相手に対してではなく、「正しい自分」というセルフイッメージでしかない。だから相手が自分の思い通りに動いてくれないと、セルフイッメージが崩れてしまい不安になるので、なんでこうしないんだぽよ、ああしないんだぽよと他人を責め立て、他人の挙動に振り回され、ネットに罵詈雑言を書き連ねるだけの人生になってしまう。)

 

互いを固定化して捉え合い、互いを決めつけ合い、互いを見ようとしない者同士が付き合うと、一緒にいても実際のところは何もわからず、いや、私は相手のことがわかっていると思い込んでしまい、それ故に寂しさが一向に解消されず、相手の挙動に一喜一憂し、わかっているはずの相手が自分の思い込みとは違う挙動をすると、相手を責め立てることになってしまい、どんなに長い付き合いであったとしても人間関係が薄っぺらく、険悪なものになってしまうのかもしれない。

 

「自分の思い込みの世界=自分の現実」からは完全に抜け出せないとしても、それでもなお、私は相手をきちんと見ようとしているかしらん。

 

「自分は正しい」という前提に立ち、相手はこういう人間だと決めつけ、実際の相手をトップスピードで無視していないかしらん。

 

やっちまってるわ。

 

声出して切り替えていこうと思う。