引っ越しも終わり、ようやく大分での日常が始まった。
私の日常は基本的に家事・運動・読書・瞑想・労働・アウトプット(ジャーナル・ブログ・Youtube)で、やはりいつものこれらがいい感じのリズムで揃うと一日一日が整って実に心地が良い。
引っ越しに伴い、カーテンを買い替えたり(サイズが部屋に合わなかった)、照明器具を買ったり(部屋に照明器具がなかった)、電気会社を変更したり(東京で契約していたものは九州は非対応だった)と、これまでの日常を構成していたものを再編成する必要が出てきたのだけれど、まさに諸行無常という感じでいい気分転換になる。
私たちは自分ではないものを自分であると勘違いし、ものに執着し、ものの価値や量で自分の価値を定義しようとするのだけれど、無論オムロン、その思考パッターンは単なる幻想的な思い込みでしかなく、真実から言うと「自分=持ち物」ではないため、定期的にものを入れ替えてその幻想を晴らし真実を刮目する必要がある。
これから買い替えたいものは以下のとおり。
タオル
Yシャツ
スーツ
ハンカチ
フリクションボールペン
洗濯バサミ
弁当バッグ
箸
よほど思い入れがなければ、自分の持ち物は手放してまた新しいものを入れて循環させるといい。
その時に使わないものを入れないこと。
使っていないものは手放す。
すると手元には使っているものだけが残る。
そして使っているものも定期的に入れ替える。
すると日用品の中にいい感じの循環が生まれてくる。
持ち物は変化するが自分はあり続ける。
持ち物の変化と自分の変化は別なものとしてある。
つまり、自分というのは持ち物ではないということがわかってくる。
すると持ち物の価値と自分の価値は別物ということがわかってくる。
するとものをかき集めたり握り締めたりすることに意味を感じなくなってくる。
だからと言って持ち物を粗末に扱ってもいいということにはならないのだけれど、使わないものを持ち続けることに意味を見出せなくなってくる。
ものへの執着が希薄になってくる。
まぁ、ものへの執着というのは「価値のある自分像」への執着がそもそもの原因であり、「価値のある自分像」のための飾りとしてものをかき集めて握り締めようとする。
ものがないと自分がどことなく価値のない空っぽの人間になったような気がするために、ものをかき集め、私は価値のあるものをこんなに持っている価値のある人間なんだということを誤魔化そうとする。
自分が自分のことを根本的に大事な存在だと思えていないために、他人から大事にしてもらおうとする。
そして、他人から大事にしてもらうために「自分がいかに価値のある存在であり、大事にされる価値があるのか」という「価値のある自分像」をアッピールし証明しようとする。
そして、人生の膨大な時間と労力とお金を注ぎ込み、ものをかき集め、かき集めたものの価値や量によって「価値のある自分像」を定義し、「価値のある自分像」をアッピールし証明しようとする。
そうして必死に誰かに大事にしてもらおうとする。
そして「価値のある自分像」のために人生の膨大な時間と労力とお金を注ぎ込んでかき集めたものは諸行無常の理によって最終的には全てを失う(悲しいことだが、自分ではないものは最終的には必ず自分の手元を離れていく、それがガチのムチの真実なのであーる)。
陰毛が生え揃った立派な自称大人なのであれば、誰かに大事にしてもらおうと必死になるより、自分が自分を大事にし、その上で誰かを大事にできるようになることを目指したいものでやんす。
よーし、今日は「ものを循環させる」という名の下にワケワカメなものを買い漁るぞい★
声出して切り替えていこうと思う。