テイカーが自分を中心に考えるのに対し、ギバーは他人を中心に考え、相手が何を求めているかに注意を払う。テイカーなら、得られる利益が損失を上回る場合にかぎり、相手の有利になるように協力する。一方ギバーなら、いつ何時も、損失より「相手」の利益のほうが上回るように手を差し伸べるのだ。
アダム・グラント『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』
私たちには「分けて否定する」という傾向が強く、何事も区別し線を引きたがる。
その線引の一つにテイカーかギバーかというものがある(マッチャーというのもある、成功するギバー、失敗するギバーというのもある)。
テイカーかギバーかという軸を別の言い方で表すと「価値のある自分像」に執着しているかどうか、ということになる。
テイカーというのは「価値のある自分像」しか見えていない。だから、実際の他人が見えていない。実際の自分さえも見えていない。
価値のある自分像を不特定多数の人に証明することが人生の目的になっている。
そして価値のある自分像を証明するためにその証明に必要だと思われる世間的価値、すなわち利益をアクセサリーのようにかき集める。
金
権力
地位
名声
美貌
家庭
人間関係
持ち物
能力
知識
学歴
職業
これらを筆頭に、より価値のある何かをより多くかき集め、それらを根拠にして「価値のある自分像」を証明することに人生を賭けている。人生はそういうゲームとさえ思い込んでいる。
それほどまでに「価値のある自分像」への執着が強い。
その「価値のある自分像」というのは世間的価値を根拠に形成されていると信じているため、誰かに世間的価値を与えてしまうと与えた分だけ自分の価値が下がってしまうように思ってしまう。
1000万円を持っていると自分には1000万円分の価値があると思ってしまう。
1000万円分の価値があるのは「お金」であり「自分自身」ではないのだけれど、自分とお金の区別ができておらず、両者の価値をガチムチに連動させてしまっている。
(自分の価値と自分ではないものの価値を区別できずに両者を連動させてしまっている)
だから人にお金を与えると、あるいは人がお金を得るようなことがあると、相対的に自分の価値がなくなるような気がするので与えない、なくなったような気がするので怨み妬み嫉み辛む。
お金がない場合は、他人の粗を探し、他人を否定し馬鹿にし見下し責め立て自分の「力」や「正しさ」をアッピールしようとする。
こういった点はテイカーの特徴として当てはまるものと思われる。
つまりテイカーは「価値のある自分像」へガチムチに執着しているということになる。
一方ギバーのほうは「価値のある自分像」への執着が少ない。
だから「価値のある自分像」を支えてくれるものへの執着も少ない。
自分と自分ではないものの区別がある程度できているため、自分ではないものをかき集め、握り締め、それらが誰に誰の手にも渡らないように、自分の手元から抜け出て行かないようにびっくんびっくんすることが少ない。
だから無理のない範囲で気持ちよく何かを与えられる。
そうすると良好な人間関係が築きやすくなり自ずといい感じの日常になる、周囲の人間も明るくて穏やかになってくる。これが「幸福なギバー」ということになる。
一方で「不幸なギバー」というものもある。
このタイプもテイカーと同じく「価値のある自分像」への執着が強い。
寛容な自分
優しい自分
善良な自分
ギバーな自分
というイッメージに執着し、実際の自分を大事にすることなく、無理をして「善良な自分」というものを演じる。
そのための記号やアクセサリーとして、無理に仕事を引き受ける、生活が破綻するほどの献金や寄付をする、人に何かを頼まない、一人ですべてを引き受ける。
すると利用されるだけ利用され心身がボロボロになっていく不幸なギバーになる。
テイカー、不幸なギバーは「価値のある自分像」への執着が強い。
こういう人間でなければ価値がない、価値がない人間は存在してはいけない、だからこういう人間にならなければならない、自分はこういう価値のある人間だということを証明しなければならない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の強迫観念じみた義務感が凄まじく強い。
だからその分、否定する力も強い。
自分の中の一定の基準を満たさなければ、自他を問わず見捨てる、否定する、攻撃する、責める。
だから他人を苦しめるし何よりも自分を苦しめる。
だから成功しても苦しい。
大事にしているものが「価値のある自分像」という虚像であり、実際の自分、つまり価値のある自分像とは異なる現実の自分、等身大の自分を大事にしていないので、成功しても虚しい。
テイカーだから不幸、ギバーだから幸福というものではなく、「価値のある自分像」への執着の度合いによって幸不幸が決まる。実際の自分を大事にしているかどうかで幸不幸が決まる。
(大事にするというのは自分がやることなすこと全てを正当化することではない。正しい部分や間違っている部分を始め、玉石混交の側面が自分にはあるということを受け止めた上で、自分を粗末に扱わずに、自分と丁寧に付き合ってくことだ)
虚像を大事にして実際の自分を無視し拒否し攻撃し粗末にしている状態=不幸
虚像から離れて実際の自分を寛容に受け入れて大事にしている状態=幸福
自分が不幸か幸福かを判断するためには、自分が普段から何かや誰かを否定する、攻撃する、拒否する、責めることが多いのか、現実を受け入れて心穏やかに過ごす時間が多いのかを考えてみるといい。
(私は本来穏やかなのに「あいつのせいで」「社会のせいで」というのはただの言い訳でしかない。それは「清く正しく善良な自分像」に執着しているが故の攻撃性でしかない、つまり自分を粗末にすることしかできないという意味で不幸な状態でしかない)
自分の虚像を大事にしていると、相手のことも虚像としか見ない。自分と自分ではないものの区別ができないため、相手と相手ではないものの区別もできず、実際の相手ではないもので相手のことを決めつける。つまり実際の相手のことが見えない。
相手のことが見えないため、相手にとって何が本当に相手の相手のためになるのかが見えない。相手に何をするのかしないのかの判断軸は「価値のある自分像」にとって有益かどうかでしかない。
実際の自分を大事にしていると、自分と自分ではないものの区別ができるため、相手と相手ではないものを区別し、実際の相手を見ようとする、相手のことを決めつけずに相手自身に注意を払おうとする。相手の考えや感情や世界の見え方に興味を示す。
したがって実際の相手にとってためになることを提供しやすくなる。また実際の相手は虚像とは異なり諸行無常の理によって変動するものであるため、その変化に応じて相手を受容し、その上で相手にとって利益となるものを提供しやすくなる。
こういう人間は価値がない。
だからこういう人間でなければならない。
このような考えに囚われて自他を否定し、それ故に価値のある自分像に執着した日々を送っていないか。価値のある自分像を証明するための記号なりアクセサリーをかき集めるだけの日々になっていないか。
要チェケラッチョかもしれない。
「本を読んで賢い自分」というイッメージをアッピールするために実際には読まない本を20冊ほど爆買いし、本棚に飾っておこうと思う。
声出して切り替えていこう。